photo&lyric by sora (@Skylit_Blue)
「誰かに言われたから」などの外発的動機ではなく「自分がそうしたいから」という内発的動機が大切なのは、「最終的に自分が決めた」という想いによって責任の所在が自分になるからだと思う。そうすれば、言い訳も敗因も後悔も、全部自分の中で完結する。自分の人生に責任をもてる生き方をしたいね。
◯ ジャック・ラカンの冒険
主体がまず第1にファルス(空虚)なものとして表現されることは先の図式lで述べた通りだがこの式においてもそのようにみなされる。
主体そのものは式の中のどこにもない。⑵の主題にとってシニフィエは想像界ル・イマジネールの双数的関係のパートナーである母親の持つ欲望の出現を待ってS/sのシニフィエとなる。
ラカン・父親の隠喩
主体がまず第1にファルス(空虚)なものとして表現されることは先の図式Lで述べたとおりだが、この式においてはそのようにみなされる。主体そのものは上式中のどこにもない。⑵な主体にとってのシニフィエは想像界ル・イマジネールの双数的関係のパートナーである母親の出現を待つ。
ラカンによれば、主体は子どもの位置をこの式の中に占めているのだが、空虚なのである。また母親の欲望は母親であるがゆえに父親の名を欲する。それは現実の父親ではない象徴としての父親であり、故に父-の-名と表現される。
したがって本来S/sの図式に収まらなければならないはずの母親の欲望は⑴式の中ではシニフィエの場に移動する。母親の欲望が父親を優位に付置する事を求めた結果である。そして主体の空虚性が母親をシニフィエの位置に置く事になったのである。
しかしまた、逆に主体が空虚であるからこの母親の欲望が導いていたとも言える。母親の欲望が父親の名を欲するので⑶式のように父親の名を中心として主体は収束していく。母親の求める父親の名は名前だけの象徴的なものであり、そこに⑶における空虚なシニフィエとしてのファルスが出現する。
Aは大文字の他者である。主体は母親の欲望に導かれて空虚なシニフィエAの他者としてのシニファン、そして象徴でしかない「名」としての父親の世界にたどり着く事になる。
ラカンは無意識が表面に現れて意識化された形が精神病であるという見解には大きく異を唱えている。しかし無意識が語るという見解には俺も賛成する。
無意識が言語langageであるというのは、フロイトが「外国語を翻訳するように」(ラカン「精神病」岩波書店ジャック・アラン・ミレール編)それを一度ばらばらにして再構成するように読み直すからだという。
あるParanoia性の妄想を持つ妄想を持つ女性患者が、隣室の男性に「雌豚め」と言われたその日の分析で彼女は「私豚肉屋から来たの」という言葉をまず口にした。
妄想の思考-言語体系の中ではしばしば主体と客体の転倒が行われる。
フロイトが優れた妄想の解読者であったとすれば、妄想を持つ患者は正に自分自身がそれを解読せずに話す者、すなわちまるで自分の知らない外国語で話している者だという。
また、大文字の他者ではなく、小文字の他者の言葉で語る者だともいう。なぜ他者性が二重に文節化されなければならないのか。
俺はラカンを書き綴ることによって、俺が臨床を始めた言葉、paroleの存在性について確認作業を行い続ける。この作業が終わった時にラカンを葬り去り、初めて俺は次の段階に進めるだろう。そこに待つのはまたラカンの鏡像段階かもしれないという恐怖に怯えながら。
Schema Lについて幼児は前エディプス期とも呼べる母親との双数的関係の中で常に母親と結合する関係を欲望し、想像界の世界に身を置く。しかし「父の名」はそれを許さず彼に言語と禁止を与えた。
この辺りの記述はフロイトに回帰しながら対象関係論を取り入れているラカンの姿勢が読み取れるが、ラカンは自らを対象関係論者とは認めていない。
父の名は名目上のものでありはすれ、しかし絶対的なものであった。ラカンは良く使われる日常言語を用い、大文字の他者を例証する。
「君は僕の妻だ」
「あなたは私の師」
個人内容言語paroleの中で上記2文にとって、その源泉となって権威を与えているものは一体何なのか、それは主体にとっては未知なるものである。
それは主体にとってその場所からの働きかけはあるけれども見えてくるものではない象徴界の減力、他者大文字のAである。
「私、豚肉屋から来たの」と語る女性にとってはこの大文字の他者Aは存在せず、隣室の男性が語った言葉がそのまま小文字の他者として主体Sに発語を行わせている。
シュレーバーもまた、全ての人間に対し(駄目になった奴)、と呼びかける。
彼にとっても大文字の他者Aは喪失されたものとなり、距離感を失った小文字のa'のparoleで語っている。
「君は僕の妻だ」というparoleは「僕は君の夫だ」というメッセージであると同時に、関係性を大文字の他者Aによって再認する行為であるという。
象徴界から想像界への退行がParanoia性の妄想であるならば、幼児期の鏡像段階によって示された18か月期はまた、想像界から象徴界への運命的な移行の時期であるとも言えるだろう。
象徴の出現という現象についてもまたフロイトは興味深い考察を行っている(「快楽原則を超えて」S.Freud,日本教文社)。
ちょうど生後18カ月になる幼児について、手間がかからないけれどもひとつの困った癖を持っていて、それは部屋の中のこまごまとした物を手当たり次第投げつけるという癖だという。
この子どもはそんな風に物を投げつける時は決まって《o-o-o-o》と叫び声と満足の顔をする。
フロイトの観察によれば、この幼児は糸巻きを投げつけてそれが見えなくなると例の《o-o-o-o》の声を発し、その糸がたぐり寄せられて出現すると嬉しそうに《Da》(いた・あった)と声を上げたという。
《oーoーo-o》はこの時「いない」を象徴する。
また、ある時には母親が長時間留守にしていて戻ったとき子どもが《o-o-o-o》と言いながら鏡に向かって自分の姿が見えなくなるまでしゃがみ込んでいたという。
いわばこの「いないいない遊び」はピアジェなら感覚運動期における保存性の出現、または前運動期への移行とも定義付けられるのであろうが、ラカン流の解釈を行うならば、言語の獲得によって象徴される、きわめて重要な主体の転換期である。
この2つの遊びでは、母親が自分の目の前からある時には消え、ある時には現れるという厳然とした事実の前に主体としての幼児は常に強烈に母親を欲望する心性を1人きりで、《いる-いない》の別の対象に委託し、糸巻きや自分自身によってそれを代理させていると言えはしまいか。
《o-o-o-o》や《Da》という単純なものではあるけれどもこの時、用事は確実に言語の獲得に成功し、掟であり法である他者A、想像界から主体を疎外する象徴を身をもって体験している。
鏡像の認識の成立が、単にピアジェ的な認識論にとどまることなく、言語の獲得も象徴している。自体愛における主体の「寸断された身体」の幻想L’Imaginaireもまた、ただばらばらの身体部分からの移行ということよりも、主体が想像界においては寸断された欲望の総合体であることを示している。
シュレーバーはある時に、自分の死が新聞で報じられたという啓示を受け、死んだシュレーバーの方が生きたシュレーバーよりも才能があり、その血管才能あるシュレーバーよりも才能があり、才能あるシュレーバーと共に同性愛対象のフレシジッヒ博士も想像界の中で死ぬ。
ここまで書いていて思ったのは俺のあらん限りの知識と解釈をもってして、自己流のラカンや精神分析そのものへの解釈をしているということ。それが正しいかどうかなのかはまさに俺自身の自由連想的な解釈になっている。
続き。「上のフレシジッヒ」「光り輝くフレシジッヒ」40から60の小さな魂に分断される「下のフレシジッヒ」を見ることになり「手記」はフレシジッヒが分裂したまま延々と続けられることになる。
確固たる同性愛の妄想対象であるフレシジッヒはシュレーバーにとっては寸断された欲望。ラカンはparoleを3つの領域に分割する。
第1にシニフィエとの隠喩的、すなわち多層的に対応する関係を持つシニファンとしての象徴界
シニフィカシオン意味作用である一対一対応で示すことのできる想像界
そしてソシュールが言語学にその概念を登場させたようにラカンもまた象徴界、想像界の2つの次元にまたがる通時性シンタクスとしての現実界を登場させる。
現実界はまた厳密に現実的であるという意味でその書かれた言説discoursに対応する。discoursの文法の中では書くものは書かれたものと正確に一対一の対応をする。主体はこの3つのparoleの領域を使用社会的言語Langを発することができる。
シニファンを表象的道具として、シニフィカシオンを前概念として、そしてそれらを現実界へと受け入れられるようにする。
他者Aは「君は僕の妻だ」という未知なる場所から主体に現実を語る。精神病的現象とは、ある異様なシニフィカシオンが現実の中に出現することだという。
シニフィカシオンは象徴化のシステム、すなわち言語体系にはこの精神病理的な構造の上ではそれを通過せずに働くのであると同時に、その出現も突然である。「精神病は発病前史を持っていないように思われます」(精神病)
(精神病であるかどうかはその患者の言語能力langageが保たれているかどうかを見ればわかります。)※精神病
実際シュレーバーにとっては通常の言語体系Langから外れている「基本語」の創造なしには彼の「手記」を語り得なかったのだし、突然出現した「子を生す」というシニフィカシオンは主体にとっては何ら象徴としての必然性を持つものではなかった。
シュレーバー症例では結局、「基本語」によって細いシニファンのイトが不可解な創造的世界であるシニフィカシオンを「手記」というdiscoursにまで高められたという事はこの手記によって彼が法曹界への復帰を果たしたのだという事実からも明らかである。
「基本語」によって語られた神への愛の「否定」による救済妄想に至る弁証法は以下のように要約されうるだろう。「私は彼を愛する」→「私は彼を愛さない」→「私は彼しか愛さない」
同じく「否定」の弁証法によってラカンに解読されたエメの症例てまはlangageの著しい破壊は起こっていなかったが同一性の基盤が脅かされていたという事は彼女が激しく女流作家や女優達を憎み、ある時は息子に危害を加える敵を妄想しつつ、またある時には息子を置き去りにして独居していた。
エメは混乱していた。結婚前のN…のC嬢との親交について、シュレーバーが満たされぬフレシジッヒ博士への同性愛的感情から様々な神や魂の妄想に陥っていったように、エメについても、もし女優の代わりにN…のC嬢が現れていたならば犠牲者となっていただろうとラカンの報告はそう言明している。
28歳と21歳の2人の姉妹によって行われた彼女達が使用人として奉公していた家の主人を残虐なやり方で殺したある症例(ラカン「パラノイア性犯罪の動機」現代思想特集号)についても言及されている。
28歳と21歳の姉妹が奉公していた主人を惨殺した症例。「別の人生では私は妹の夫になるはずだったと確信しています」という姉の証言があり、ある時は母子間の想像関係として描きます出された双数性、パラノイア性精神病についての同性愛的な想像的結合が満たされた。
ゆえにまた満たされなかったゆえに現実界への攻撃としてしばしば犯罪が行われることがわかる。
想像界への教育がその存在そのものにより攻撃性を孕まざるを得ないことはまた一見、「死の本能」にも似た概念でもあり得るだろう。
「攻撃的関係が自我moiを構成する」(精神病)
そう言えば遡行して、ffさんの質問に答えた。Schema Lの中で空虚であるはずのファルスΦがどうして主体と近いのか。ラカンは主体、Φ、男根は常に空虚さを伴った偽の存在と定義づけている。
パラノイア性の精神病は同性愛的な想像が満たされても満たされなくてもそれが故に現実界への攻撃としてらしばしば犯罪が行われる。
想像界への脅威がその存在そのものにより攻撃性を孕まざるを得ない事は一見、「死の本能」とも似た概念にもなり得るだろう。「攻撃的関係は自我moiを構成する」(精神病:前掲書)
俺が語っているのは約30年前のラカン研究の歴史。ラカン研究家の新宮一成先生はとうに最終講義を終えている。無意識について触れている新宮先生の「夢と構造」その中に出てくるイザナミ症候群は中絶によって負った傷を治療する経過。在不在交代の原則。
開業ラカン派元精神科医小笠原晋也。彼が婚約者を殺害して懲役9年の刑を受けたことは正に双数的関係。彼の主催する東京ラカン塾は臨床心理士、公認心理師への批判を行っている。正に攻撃的関係による自我moiの形成。
さて、自我はイドにとっての主人であり無意識を主体と見るならば自我はまたあの大文字の他者Aである。そしていつでも自我が人間の主導権を握ることができるようになっている。
想像と象徴は現実の中での戦いを余儀なくされることになる。
しばしば行われるこうしたパラノイア性の犯罪には自己愛的な感情が伴う事が多いのは最前述べたとおりであり、また自己愛的な固着はある時は近親に対し、またある時には自分と同一の性を持つ者へとその対象を移しやすいことがラカンによって観察されている。
パラノイア。ナルシシティックな感情が攻撃行動に繋がり易いのはまた「同性愛」を経た否定の弁証法とラカンは言う。俺は関係ないと思っている。
またラカンのdiscours。「私は彼を愛する」は否定の機能により「私は彼を憎む」に転換される。エメにとっては無二の親友であったN…のC嬢は後に憎まれるようになった。
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