ひなたあきらのおけまる公認心理師たん

新制度公認心理師の検証をしばらく続け、この制度がよりよいものになるための問題提起を行いつつ、カウンセリングの在り方について考え、最新の情報提供を行っていきます。ほか心理学全般についての考察も進めていきます ブログ運営者:ひなたあきら メールアドレスhimata0630★gmail.com(★を@に変えてください。)

タグ:精神分析

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photo&lyric by sora (@Skylit_Blue)
「誰かに言われたから」などの外発的動機ではなく「自分がそうしたいから」という内発的動機が大切なのは、「最終的に自分が決めた」という想いによって責任の所在が自分になるからだと思う。そうすれば、言い訳も敗因も後悔も、全部自分の中で完結する。自分の人生に責任をもてる生き方をしたいね。


◯ ジャック・ラカンの冒険

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主体がまず第1にファルス(空虚)なものとして表現されることは先の図式lで述べた通りだがこの式においてもそのようにみなされる。

主体そのものは式の中のどこにもない。⑵の主題にとってシニフィエは想像界ル・イマジネールの双数的関係のパートナーである母親の持つ欲望の出現を待ってS/sのシニフィエとなる。

ラカン・父親の隠喩

主体がまず第1にファルス(空虚)なものとして表現されることは先の図式Lで述べたとおりだが、この式においてはそのようにみなされる。主体そのものは上式中のどこにもない。⑵な主体にとってのシニフィエは想像界ル・イマジネールの双数的関係のパートナーである母親の出現を待つ。

ラカンによれば、主体は子どもの位置をこの式の中に占めているのだが、空虚なのである。また母親の欲望は母親であるがゆえに父親の名を欲する。それは現実の父親ではない象徴としての父親であり、故に父-の-名と表現される。

したがって本来S/sの図式に収まらなければならないはずの母親の欲望は⑴式の中ではシニフィエの場に移動する。母親の欲望が父親を優位に付置する事を求めた結果である。そして主体の空虚性が母親をシニフィエの位置に置く事になったのである。

しかしまた、逆に主体が空虚であるからこの母親の欲望が導いていたとも言える。母親の欲望が父親の名を欲するので⑶式のように父親の名を中心として主体は収束していく。母親の求める父親の名は名前だけの象徴的なものであり、そこに⑶における空虚なシニフィエとしてのファルスが出現する。

Aは大文字の他者である。主体は母親の欲望に導かれて空虚なシニフィエAの他者としてのシニファン、そして象徴でしかない「名」としての父親の世界にたどり着く事になる。

ラカンは無意識が表面に現れて意識化された形が精神病であるという見解には大きく異を唱えている。しかし無意識が語るという見解には俺も賛成する。

無意識が言語langageであるというのは、フロイトが「外国語を翻訳するように」(ラカン「精神病」岩波書店ジャック・アラン・ミレール編)それを一度ばらばらにして再構成するように読み直すからだという。

あるParanoia性の妄想を持つ妄想を持つ女性患者が、隣室の男性に「雌豚め」と言われたその日の分析で彼女は「私豚肉屋から来たの」という言葉をまず口にした。

妄想の思考-言語体系の中ではしばしば主体と客体の転倒が行われる。

フロイトが優れた妄想の解読者であったとすれば、妄想を持つ患者は正に自分自身がそれを解読せずに話す者、すなわちまるで自分の知らない外国語で話している者だという。

また、大文字の他者ではなく、小文字の他者の言葉で語る者だともいう。なぜ他者性が二重に文節化されなければならないのか。

俺はラカンを書き綴ることによって、俺が臨床を始めた言葉、paroleの存在性について確認作業を行い続ける。この作業が終わった時にラカンを葬り去り、初めて俺は次の段階に進めるだろう。そこに待つのはまたラカンの鏡像段階かもしれないという恐怖に怯えながら。

Schema Lについて幼児は前エディプス期とも呼べる母親との双数的関係の中で常に母親と結合する関係を欲望し、想像界の世界に身を置く。しかし「父の名」はそれを許さず彼に言語と禁止を与えた。

この辺りの記述はフロイトに回帰しながら対象関係論を取り入れているラカンの姿勢が読み取れるが、ラカンは自らを対象関係論者とは認めていない。

父の名は名目上のものでありはすれ、しかし絶対的なものであった。ラカンは良く使われる日常言語を用い、大文字の他者を例証する。

「君は僕の妻だ」
「あなたは私の師」
個人内容言語paroleの中で上記2文にとって、その源泉となって権威を与えているものは一体何なのか、それは主体にとっては未知なるものである。

それは主体にとってその場所からの働きかけはあるけれども見えてくるものではない象徴界の減力、他者大文字のAである。

「私、豚肉屋から来たの」と語る女性にとってはこの大文字の他者Aは存在せず、隣室の男性が語った言葉がそのまま小文字の他者として主体Sに発語を行わせている。

シュレーバーもまた、全ての人間に対し(駄目になった奴)、と呼びかける。

彼にとっても大文字の他者Aは喪失されたものとなり、距離感を失った小文字のa'のparoleで語っている。

「君は僕の妻だ」というparoleは「僕は君の夫だ」というメッセージであると同時に、関係性を大文字の他者Aによって再認する行為であるという。

象徴界から想像界への退行がParanoia性の妄想であるならば、幼児期の鏡像段階によって示された18か月期はまた、想像界から象徴界への運命的な移行の時期であるとも言えるだろう。

象徴の出現という現象についてもまたフロイトは興味深い考察を行っている(「快楽原則を超えて」S.Freud,日本教文社)。

ちょうど生後18カ月になる幼児について、手間がかからないけれどもひとつの困った癖を持っていて、それは部屋の中のこまごまとした物を手当たり次第投げつけるという癖だという。

この子どもはそんな風に物を投げつける時は決まって《o-o-o-o》と叫び声と満足の顔をする。

フロイトの観察によれば、この幼児は糸巻きを投げつけてそれが見えなくなると例の《o-o-o-o》の声を発し、その糸がたぐり寄せられて出現すると嬉しそうに《Da》(いた・あった)と声を上げたという。

《oーoーo-o》はこの時「いない」を象徴する。

また、ある時には母親が長時間留守にしていて戻ったとき子どもが《o-o-o-o》と言いながら鏡に向かって自分の姿が見えなくなるまでしゃがみ込んでいたという。

いわばこの「いないいない遊び」はピアジェなら感覚運動期における保存性の出現、または前運動期への移行とも定義付けられるのであろうが、ラカン流の解釈を行うならば、言語の獲得によって象徴される、きわめて重要な主体の転換期である。

この2つの遊びでは、母親が自分の目の前からある時には消え、ある時には現れるという厳然とした事実の前に主体としての幼児は常に強烈に母親を欲望する心性を1人きりで、《いる-いない》の別の対象に委託し、糸巻きや自分自身によってそれを代理させていると言えはしまいか。

《o-o-o-o》や《Da》という単純なものではあるけれどもこの時、用事は確実に言語の獲得に成功し、掟であり法である他者A、想像界から主体を疎外する象徴を身をもって体験している。

鏡像の認識の成立が、単にピアジェ的な認識論にとどまることなく、言語の獲得も象徴している。自体愛における主体の「寸断された身体」の幻想L’Imaginaireもまた、ただばらばらの身体部分からの移行ということよりも、主体が想像界においては寸断された欲望の総合体であることを示している。

シュレーバーはある時に、自分の死が新聞で報じられたという啓示を受け、死んだシュレーバーの方が生きたシュレーバーよりも才能があり、その血管才能あるシュレーバーよりも才能があり、才能あるシュレーバーと共に同性愛対象のフレシジッヒ博士も想像界の中で死ぬ。

ここまで書いていて思ったのは俺のあらん限りの知識と解釈をもってして、自己流のラカンや精神分析そのものへの解釈をしているということ。それが正しいかどうかなのかはまさに俺自身の自由連想的な解釈になっている。

続き。「上のフレシジッヒ」「光り輝くフレシジッヒ」40から60の小さな魂に分断される「下のフレシジッヒ」を見ることになり「手記」はフレシジッヒが分裂したまま延々と続けられることになる。

確固たる同性愛の妄想対象であるフレシジッヒはシュレーバーにとっては寸断された欲望。ラカンはparoleを3つの領域に分割する。

第1にシニフィエとの隠喩的、すなわち多層的に対応する関係を持つシニファンとしての象徴界

シニフィカシオン意味作用である一対一対応で示すことのできる想像界

そしてソシュールが言語学にその概念を登場させたようにラカンもまた象徴界、想像界の2つの次元にまたがる通時性シンタクスとしての現実界を登場させる。

現実界はまた厳密に現実的であるという意味でその書かれた言説discoursに対応する。discoursの文法の中では書くものは書かれたものと正確に一対一の対応をする。主体はこの3つのparoleの領域を使用社会的言語Langを発することができる。

シニファンを表象的道具として、シニフィカシオンを前概念として、そしてそれらを現実界へと受け入れられるようにする。

他者Aは「君は僕の妻だ」という未知なる場所から主体に現実を語る。精神病的現象とは、ある異様なシニフィカシオンが現実の中に出現することだという。

シニフィカシオンは象徴化のシステム、すなわち言語体系にはこの精神病理的な構造の上ではそれを通過せずに働くのであると同時に、その出現も突然である。「精神病は発病前史を持っていないように思われます」(精神病)

(精神病であるかどうかはその患者の言語能力langageが保たれているかどうかを見ればわかります。)※精神病

実際シュレーバーにとっては通常の言語体系Langから外れている「基本語」の創造なしには彼の「手記」を語り得なかったのだし、突然出現した「子を生す」というシニフィカシオンは主体にとっては何ら象徴としての必然性を持つものではなかった。

シュレーバー症例では結局、「基本語」によって細いシニファンのイトが不可解な創造的世界であるシニフィカシオンを「手記」というdiscoursにまで高められたという事はこの手記によって彼が法曹界への復帰を果たしたのだという事実からも明らかである。

「基本語」によって語られた神への愛の「否定」による救済妄想に至る弁証法は以下のように要約されうるだろう。「私は彼を愛する」→「私は彼を愛さない」→「私は彼しか愛さない」

同じく「否定」の弁証法によってラカンに解読されたエメの症例てまはlangageの著しい破壊は起こっていなかったが同一性の基盤が脅かされていたという事は彼女が激しく女流作家や女優達を憎み、ある時は息子に危害を加える敵を妄想しつつ、またある時には息子を置き去りにして独居していた。

エメは混乱していた。結婚前のN…のC嬢との親交について、シュレーバーが満たされぬフレシジッヒ博士への同性愛的感情から様々な神や魂の妄想に陥っていったように、エメについても、もし女優の代わりにN…のC嬢が現れていたならば犠牲者となっていただろうとラカンの報告はそう言明している。

28歳と21歳の2人の姉妹によって行われた彼女達が使用人として奉公していた家の主人を残虐なやり方で殺したある症例(ラカン「パラノイア性犯罪の動機」現代思想特集号)についても言及されている。

28歳と21歳の姉妹が奉公していた主人を惨殺した症例。「別の人生では私は妹の夫になるはずだったと確信しています」という姉の証言があり、ある時は母子間の想像関係として描きます出された双数性、パラノイア性精神病についての同性愛的な想像的結合が満たされた。

ゆえにまた満たされなかったゆえに現実界への攻撃としてしばしば犯罪が行われることがわかる。

想像界への教育がその存在そのものにより攻撃性を孕まざるを得ないことはまた一見、「死の本能」にも似た概念でもあり得るだろう。

「攻撃的関係が自我moiを構成する」(精神病)

そう言えば遡行して、ffさんの質問に答えた。Schema Lの中で空虚であるはずのファルスΦがどうして主体と近いのか。ラカンは主体、Φ、男根は常に空虚さを伴った偽の存在と定義づけている。

パラノイア性の精神病は同性愛的な想像が満たされても満たされなくてもそれが故に現実界への攻撃としてらしばしば犯罪が行われる。

想像界への脅威がその存在そのものにより攻撃性を孕まざるを得ない事は一見、「死の本能」とも似た概念にもなり得るだろう。「攻撃的関係は自我moiを構成する」(精神病:前掲書)

俺が語っているのは約30年前のラカン研究の歴史。ラカン研究家の新宮一成先生はとうに最終講義を終えている。無意識について触れている新宮先生の「夢と構造」その中に出てくるイザナミ症候群は中絶によって負った傷を治療する経過。在不在交代の原則。

開業ラカン派元精神科医小笠原晋也。彼が婚約者を殺害して懲役9年の刑を受けたことは正に双数的関係。彼の主催する東京ラカン塾は臨床心理士、公認心理師への批判を行っている。正に攻撃的関係による自我moiの形成。

さて、自我はイドにとっての主人であり無意識を主体と見るならば自我はまたあの大文字の他者Aである。そしていつでも自我が人間の主導権を握ることができるようになっている。

想像と象徴は現実の中での戦いを余儀なくされることになる。

しばしば行われるこうしたパラノイア性の犯罪には自己愛的な感情が伴う事が多いのは最前述べたとおりであり、また自己愛的な固着はある時は近親に対し、またある時には自分と同一の性を持つ者へとその対象を移しやすいことがラカンによって観察されている。

パラノイア。ナルシシティックな感情が攻撃行動に繋がり易いのはまた「同性愛」を経た否定の弁証法とラカンは言う。俺は関係ないと思っている。

またラカンのdiscours。「私は彼を愛する」は否定の機能により「私は彼を憎む」に転換される。エメにとっては無二の親友であったN…のC嬢は後に憎まれるようになった。

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photo&lyric by sora (@Skylit_Blue)
朝から虹を見つけた。ただそれだけのことで心の隅から隅まで爽やかな風がそよいだ。


◯ ジャック・ラカンへの挽歌

1.序

ついこの間からラカンばかり書いています。ラカンは臨床心理学を学び始めたばかりの僕にとっては言語という営みをカウンセリングの中で行う最大の敵でもあり、苦しいながらも理解しなければならない最大の味方になるとも思っていました。それをきちんと整理し尽くして僕は次のステップに進みたいと思っています。

この強敵を消化し尽くしていかなければならないというのは臨床の知を理解するという義務感からなのでしょうか。精神分析初期には決して扱ってはならなかった精神病圏を自由闊達に飛び回るラカンやビオンから遡るときっと境界例
にも行き着くのだと信じています。

そしてラカンはただ単に衒学的な哲学ではなく今正に目の前にいるクライエントさんのための実践的な臨床の知を提示しているとも思うのです。

2.本文

ラカンについて述べることが衒学的で臨床の知とは関係がないものだとは思わない。言語を使う精神分析学について考えることは俺たちが臨床家としての日常的な営みをすることと深く関係している。鏡像段階の獲得は発達の上で不可欠なものだし、超自我、父の名は人間理解に通じる。

ワロンの自我-他者論は他者の識別は幼児にとっては困難なことを示している。いわゆる「アハ」体験は同一の機制が働いていると考えることができる。

ラカンはそのような一般心理学的見地を演繹しつつフロイト的な視点から鏡像段階理論を展開している。

鏡像段階は、幼児が自己の鏡像を自己の像と認知するに至る生後18カ月以降の年齢段階を示すものとして定義される。(ゲゼルも参照のこと)

鏡像段階以前には幼児が自己の姿を統一性を以って認識できない前鏡像段階があり、それは外界の認知可能な6カ月目から始まる。鏡像段階を獲得するために主体は自己を疎外する同一性を認識しなければならない。

何故ならば、幼児にとって自他未分離な状態は心地よい状態で、鏡像段階を獲得することによって主体の経験する不快さはあるひとつ心像イマーゴを伴い、一生を通じて残るものになるからである。

内界-環界(外界)という概念によって説明することが可能である。鏡像を獲得する事自体不快感を伴う外界への接触の始まりと言い換えられる。前鏡像段階、イド対鏡像段階、非イド的なものという図式が成立する。

それはまた、夢の例示によって説明がなされている。第一にはまず、寸断された身体のイメージである。

分析の過程が進んでいくにつれてしばしば現れる身体のバラバラの象は前鏡像段階への退行である。

また「私の形成」(エクリ)である鏡像段階とイドとの対立は、塹壕で固めた野営地2つの中でそれぞれが身をもがく(本人の身体が分化する)夢に象徴されている。

前述シュレーバー症例では患者が人前で自慰に耽ることが報告されていたが、フロイトによればそれはまた口唇期に見られること自体が自己愛的満足として診断されていた。

エメの症例にはそこまでの退行は見られなかった。ただしシュレーバー症例を参照することにより、あるひとつの契機として働いていたと考えることは可能だろう。自己愛は対象愛に移行する過程で中間の様相として自己愛の現象を発見できる。

正常なリビドーの発達はそのように進んでいく。固着Fixierungが起こると、あるいは退行によって妨げられることにことによって内界は快であり、外界は不快である、という図式-前鏡像段階の状態に主体は閉じ込められることになると言えるだろう。

またしかし、この鏡像段階の獲得こそが「パラノイア性の自己疎外」の準備段階であり「孤立化過程」でもあると見られている。(エクリ)

塹壕の夢では、その外傷的な段階は防禦的工事を施した建造物の出現によって隠喩としてそれが示されていると言えるだろう。

ラカンがそれを換喩としてではなく隠喩であると綴ったのは、隠喩で書かれた文章は記号表現と記号内容の不一致がそこに見受けられるからであり、記号表現が何も意味を持たない上に、メッセージとしての表現と表現との関係が対等であるという点に集約されるだろう。

夢はまたひとつのテクストであり、そこからは「雪の肌」の表現に見受けられるような比喩の自由さが求められている。

家族の三角形の理論に言及していきたい。フロイトの「エディプスの三角形」の中ではまず、幼児にとっての最も原初的リビドーの対象は母親であると述べられている。

男根期に頂点に到達するこの時期について、ラカンは母親との双数的関係によってとらえられる「想像界」と呼びならわす。また、このような母親とだけとの関係についてではなく、父親をも含めた世界は「象徴界」と言われ、結局エディプス期は父親=象徴界=法の世界への同一視によって達成される。

そのような社会化、象徴界の過程の一時期とらえられるのだが、社会化が決して肯定的な意味を以って捉えられるのではないという事は内界-環界との対立に主体が出て行く事によって外傷を蒙るという鏡像段階の図式ともまた同様である。

すなわち「言語-法」の獲得により主体は自らを疎外していくのだと言えよう。社会化の過程の中で自我・他者を区別する必要に迫られることを追究したのはワロンも同様であり、ラカンとの類似点も多く指摘されている。

ワロンによれば、子どもは生後2〜3カ月までは周囲と一体であり、身辺の世話をしてくれる大人がいなければ自身も不在となり、2人遊びの可能になる7〜8カ月期を経て初めて「私」という言葉を正しく使うようになる。

丸山圭三郎「ソシュールを読む」岩波セミナーブックス2参照「デンシャ、デンシャ」と習い立ての単語を一生懸命呟いていては思いあぐねた様子で「ママ、デンシャって人間なの?それともお人形なの?」という3歳の女児を例示したい。

丸山は感覚=運動的知能から思考的な知能へと移行する象徴化過程を言語の意味論的な分節行為の中に示すが、ワロンの問いかけはより根源的である。

鏡像の自分は、自分から見る異なった複数よりも識別の分節化はより難しく、それが可能となるのは意識にらおいて自我Moiと他者l'Autreがほぼ同時に形成されるのを待たなければならないと述べられている。

その峻別はまた、「内なる他者」※前掲(身体・自我・社会/アンリ・ワロン)と呼ばれる社会的自我によって完成される、というのも第2の自我である内なる他者を通してまた他の個人「他者」に連絡を取っていくからである。

結局「内なる他者」とは現実には不在の自分の鏡像を想定した他者であり、また小児にとっては遊びの中の仲間意識を通して形成されていくものであるのだが、エディプス的な母親との双数的関係から小児を疎外して行く父親こそは大文字の他者Grand Autreである。

疎外され続けける主体はラカンによって、そもそもの初めにおいて空虚であり、何も持たないものとして定義される。フロイトによる、自己愛から自体愛を経て対象愛に至るまでの対象を持たない段階はphallus=空虚=penisである。
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「自分の身体で自分自ら満足している状態」(ナルシシズム入門)は口唇期に見られるおしゃぶりを代表とする状態であり、Sが欲望の対象を持つにはMの登場を待たなければならない。しかしその欲望はまたS=主体−M母親だけの単独の関係のみで成立するわけではない。

S→MはP父→S主体の矢印を以って初めて理解されうる。P父→M母の欲望の流れというメッセージをSが与えられる事によって、初めてP→Sのコミュニケーションが成立し、主体は母親への欲望を持つに至る。

そしてこの→(矢印)こそは記号表現シニファンである。すなわち、主体P→MとP→Sという2つのシニファンを受け取り、S→Mという欲望の流れを完成させる。

主体とは他者からの対話である。エクリ(他者)である父親の欲望を以って主体は欲望を持つに至るのだと言うことができる。

また、この場合にはPは現実の父親ではなく、父親によって象徴される父親の欲望であると理解する事ができる。従って、Pを「父−の−名」Noms-du-Pèreラカン思想の中核概念と表記する事ができる。

a'は大文字の他者l’Autreではなく小文字の他者l'autreである。そしてまた主体にとって自我の理想でもあり、現実の父親でも有るのだが、主体によって気付かれてはいない。

なぜ俺がラカンを書き続けるのかというと以前描いたラカンのシェーマ図式Lまで引っ張り出してきて、ラカンを俺の中で完全に葬り去りたいから。ラカンを書き作ることによってラカンを自らの歴史としてしてきた過去をしっかりと自分のものとしながらも訣別したいというアンビバレンツな感情。

母親と主体との関係、S→Mの欲望も主体には気付かれていない。それは象徴的symboliqueなものであり、この三者の関係を象徴界の三角形と呼ぶ。主体はこの象徴界の中では何にも拠り所のない空虚な存在だと言える。

それは先に述べた記号表現シニファンの記号内容シニフィエに対する優位という概念を使います「父親の隠喩」という運動公式によっても説明がなされている。

運動公式、というのはそれぞれの要素がまた他の要素に対して運動を要請する、という点においてその言葉が使用されるからである。
今日はここまで。ここからが少し煩瑣になる。

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きょうも
何かを手放し何かを掴んで ໒꒱⋆゚

◯ 臨床心理士試験直前・境界性パーソナリティと対象関係論

最近院生や受験生たちから臨床心理士試験対策や課題提出に標題の件について聞かれることが多くなり、本稿を書くことにしました。

クライニアンにとっては松木邦裕先生「対象関係論を学ぶ−クライン派精神分析入門」岩崎学術出版社初版1996年は決して古くなることのない対象関係論が学べる一冊だと思います。Freud.Sフロイトから始まり、Klein.Mクライン、Winnicott.D.Wウィニコット、Bion.W.Rビオンが散りばめられています。この1冊で精神分析が俯瞰できるのです。

行きつ戻りつ僕も自由連想法的に書いていきますが、ビオンの野心はcontainerコンテイナーという概念で統合失調症患者の精神分析療法を試みたことだと思います。人間の内的世界は夢の世界、そして現実という外界が混乱している無意識世界を扱うということがビオンの試みと思うのです。

ビオンは間違いなく無意識世界的は出産前から存在していたと考えていました。ビオンはクラインの分析を受けた第2世代で、対象関係論の系譜を辿れば難解とも言われているがビオン抜きでは語れないのだと思います。自我心理学者は出産前には記憶は存在しないと考えていて、Rosenfeld.H.Aロザンフェルドも大きく寄与しました。

視覚がまだぼんやりとしている段階でも乳児は母親の乳房、乳首にすがりついて自らの栄養を得ることを知っています。それは対象関係論においては断片であるものの、断片が結びついて乳児の内的世界は成立していくのです。

あらゆる芸術作品、絵画は具象的なものを指しているのではなく、カンディンスキーに始まった抽象画はダリやミロなどの画家に引き継がれています。混乱した象徴世界は未だばらばらの対象を示しているのです。ちなみにこれらの言説は対象関係論理解ではラカンも言っていたかも知れません。

自己と世界の対立は部分対象群と全体的対象に分かれれます。出生時に自己は母親の胎内で癒着しているというのがウィニコットや基底欠損領域で有名なBalnt.Mバリントの思考ではないでしょうか。ここ境界例概念の萌芽を見ることができると思います。

多分精神的には母と幼児のこうした癒着はほかの発達心理学者から見ると3歳になるまで自立が達成されないと考えています。愛着障害はここでの愛情剥奪で起きてそして境界例になっていくというのが僕の解釈です。後年のコフートは自己心理学を確立したが自己愛は対象関係論にとっては自他未分離の状態ということ。

やはり後年になりますが、Lacan.Jラカンはクライニアンではないかと思っているのです。鏡像段階理論は自己と他者の峻別です。ウィニコットは自我と母親が一体化した状態を経て分離されていくと考えていました。従来精神分析は神経症患者にしか適用されないとしてきたものが重い境界例=精神病患者の自他未分離な状態にも対象関係論は有効です。

ウィニコットは自己と他者の分離は母親という対象を意識しながらなお精神的自立を考えていたのではないのでしょうか?世界没落妄想は精神分析ではないのですが多くの統合失調症患者に見られます。性的快楽、オルガスムは恐怖の対象でありそして希求される原初的欲求。いつも相反する概念がつきまとっています。

ここに来てフロイトに戻るとエロスと死の本能タナトス概念を作りました。奇しくもフロイトは統合失調症の治療理論の基礎を築いたとも言えます。小児性欲理論は乳児の内界で乳房をよい対象、悪い対象として未分離なものとして、解体された存在です。

だからこそまた進んで考えますけれどもビオンのコンテイナー概念は赤子を守ると同様に統合失調症患者を外界から守る術ともなります。ビオンは内的な乳児の不安は排泄できるものとしてとらえていました。乳児は不安の排泄に母親の乳房を利用するのですり空腹感は満たされ母親は乳児を癒せる物思いにふけります。

ここでまた考えると、対象関係論的には排泄物は乳児から母親への贈り物です。贈り物とは一体なんでしょうか。精神科の門をくぐることに必死に抵抗した患者は1年後に医師により多くの薬を求めるようになります。治療という快楽に必要な薬というプレゼントです。

対象関係論におけるファンタジーは悪い物として意識されると自他未分離で統合失調症患者の世界没落、身体異常感覚、セネストパチーにも似ています。不安と一体化した自己からそれを切り離すスプリッティング概念はここから始まるのでしょう。乳児は絶えず迫害不安に脅かされています。

クラインが妄想−分裂態勢として提唱したのは、迫害の妄想性不安、部分自己対象群、分裂機制としての投影同一視、自己と対象の再融合、身体感覚です。これらはクラインが築いた発達理論とも言えます。精神分析における転移は分析家と自己の同一視です。そして迫害不安から抑うつ状態に移行します。

対象関係論:クライン 良い乳房と悪い乳房が実は同じものであることがわかった時に乳児はこれまで乳首を噛んで傷つけて来た対象が同一だったということを知ります。乳児は乳房を自分が傷つけてしまった対象だと自覚する。そうすると乳房は乳児の罪悪感とともに傷つきと死んだ対象として自覚されるのです。

良い乳房と悪い乳房が同一であったことを知ると乳児は果てしない罪悪感をいだき抑うつ、絶望感、孤独を抱きます。それは良い対象はの罪悪感です。抑うつ不安。そして抑うつ態勢です。妄想-分裂性からの変化は2歳ぐらいまで続きます。

乳児は出生後半年までには妄想-分裂態勢を獲得していきます。そして2歳の抑うつ態勢。クラインの発達段階理論はフロイトが2歳から5歳に至るまでの口唇期モデルよりもずっと早く成立しているのです。クラインの抑うつ態勢は乳房を全体対象として自覚します。自己の中の自己破壊衝動と戦うことになるのです。

乳児はこの罪悪感の中を生きていかなければならないのです。母を思いやること。愛情の萌芽。感謝。成長過程で母の死去、母が去っていくことは果てしない罪悪感を子どもに抱かせる。傷つけた対象の復活を信じられなくなります。悔いは押し付けられた罪悪感、迫害的罪悪感となります。

クラインの概念の独特さは躁的償いや躁的防衛概念です。このマニックさは現代精神医学では認められていません。クラインの「躁的」は抑うつからの脱却のためにはマニーにならないと自己を守れないことを示しているのです。

ここで投影同一化について触れておきます。乳房が悪い。嫌いという概念から、自己と対象の分離が起こるります。対象の象徴が可能になるのです。この段階での失敗はきっと境界例となっていくでしょう。投影同一化が成功すれば対象は分離されて愛着を抱けます。

アンビバレンツな対象に対する気持を抱くこと。迫害的罪悪感は乳児に押し付けられで強要されるのです。成人になってもこの罪悪感が持ち越されると躁的になるというのがクラインの仮説、罪悪感への耐えられなさ。対象化は自己や愛情対象のパートナーにまで及びます。

クラインは発達段階について語ります。paranoid shizold妄想分列態勢Psから抑うつdepresslveD態勢への移行。Psは被害。迫害的。恋愛の中でもPsやDへの移行は常に起こり得ます。そして分析の中でも起こるこのpsとDとの繰り返しの末に怖い父(後年のラカンの「父-の-名」に相似)悪い母親は分析者に投影されるのです。

そしてパートナーや学校、職場の人間関係に持ち越されるとそれは分析者にとっても転移tranceferenceになり、後年ビオンが研究した逆転移counter tranceferetese となります。いずれにせよ境界例治療の中で起こりうるのは転移や逆転移の中に恋愛要素が持ち込まれやすいこと。未分化な自己が持ち込まれるのてです。

分析者は鏡であって万能な神ではないり迫害的、抑うつは必ず起こり得ます。迫害的不安と抑うつ不安は必ず行き来して苦しめます。統合失調症、paranoid、パーソナリティ障害にもつながるのです。

防衛機制そのものは幅広く使われている概念で、先に挙げた投影同一視のような不健全な機制度を福む心的機制と言えます。防衛規制がなければ人間の心の脆弱性は見る影もなく生きていくことすら難しいのかもしれません。不安を体外に排泄する乳児はまた不安を戻し、母親の包み込む機能も取り入れ可能です。

排出とは乳児にとっては切り離すという作業です。それがなければ恐怖に脅かされて生きていくことは難しいでしょう。排出として外に出すことは自己の危険を外に出すことです。その危険や不安は乳児が自らの中に見ている嫌なものの投影に過ぎません。投影同一化はさらに相手に対する高いを抱きます。

対象関係論におけるsplitting、投影同一視、取り入れ同一化は実は母親が本能的に子育てをする中でわかっていると対象関係論を見る上で松木邦裕先生は解釈しています。乳児の不快さは切り離され、排出されるのです。そして母親がそれを受け入れてコンテイニングする。投影と排出は相対している概念です。

取り入れが乳児に起きるということは乳児にとっては母親のよい対象を自分の中に取り入れintrojectionをしていくということで、そして取り入れ同一化と内在化が起きる。取り入れはかなり強力な力をもって乳児の心理の中に刷り込まれることになるでしょう。

乳児の内界は取り入れと投影projectionです。松木先生は投影と投影同一視を乳児の中で起きる必然的な心性として描いているが多分教科書的概念としては投影は当然起こりうるもの、そして投影同一視は不健全なものとしてとらえられているのだろう。投影同一視はより精神病的な概念です。

投影同一視は例えば佐藤が「高橋は俺のことを嫌っているに違いない、だから俺は高橋が嫌いだ」当の高橋さんは「佐藤って誰だ?」と言います。この投影同一視が投影同様乳児の中で起きているとすれば、後年ビオンが解釈さたようなコンテイニング機能は乳児にも統合失調症世界の中で不断に起きています。

健康的な投影同一視が普通の人にも起こりうるというのが松木先生の解釈です。スポーツ選手に入れ込んで投影同一視をします。そしてまた松木先生が分析者に対する被分析者の投影について指摘しています。投影によって被分析者は「偉い先生はこう言っていた」俺はこの心性はより境界例的な機制だと思うのです。

松木先生の挙げる例は摂食障害です。摂食障害は確かに取り入れと排出型の食べ吐きが行われていれば全くもって分析的には病識のない病でしょう。分析的には理解が可能だけれども分析者は無力さを感じざるを得ない。双方向からの投影が起きているのだと思います。

投影が病的なものとして理解されるように取り入れもまた病的なものとして理解されます。対象ととしてイチローを思い浮かべてみます。例えば万能人です。取り入れが不可能になってしまうということはモデルも自己にとっての良い対象の取り入れができません。as if personality、「かのような人」松木先生は言います。

僕はこの「かのような人」は境界例においてよく起こり得ると思うのです。境界例の人にとって自我同一性を獲得するのは困難です。誰かを称賛してまた別の誰かになります。その間にはその「誰か」に対する激しいこきおろしが存在します。重症境界例と精神病の違いは激しい論争を引き起こしました。

投影が健全なものとして起こり得るのであれば、感動する映画を見て泣くのはカタルシスの排出します。あまりにも衝撃的なことが起きて排出ができないのです。不健全な感情は取り入れたままになってしまい、投影は迫害的な存在の写し鏡となります。

松木先生は投影と投影同一視をほぼほぼ同じ概念として扱われているのだと思うのです。松木先生もそれに反する潮流があることは指摘しています。カーンバーグやグロットスタインです。投影はより健康なものだと思います。松木先生はいずれにせよコンテインは対象の中に同一視が起こると言います。

精神病水準で起こる病的投影同一視、妄想-分裂態勢の同一視は迫害されている体験として起こり得るでしょう。松木先生の例証「人を殺そうと思ったことはない」攻撃性の排出、取り入れはより健全に排出されるのです。精神病水準でこの排出が行われるということは元々この人が激しい攻撃性を内包していたと思います。

「サトラレ」は対象が起こす迫害や攻撃性を取り入れられないために起こる心性だと松木先生は空想-現実の妄想-分裂態勢と理解することができます。発達段階としての抑うつ状態は転移として解釈されるというのです。多分重症境界例なのでしょう。恋愛性転移は激しく起こります。

恋愛性転移が排出されないという被分析者側の恐怖です。理想化対象としての分析者です。精神分析の間だけ起こり得るものではないことを境界例を扱った臨床家はみな知っています。しかしその理解には分析的視点が役立つことを多くの治療者は知らないのです。

分裂してしまうという感情は境界例にとっては果てしない恐怖です。松木先生は理想化-絶望感がその中で起こると言います。分析においてのこの解決は徹底操作によって解決可能なのでしょうか?僕は境界例の治療の困難さは分析によって可能だと思います。

松木先生の論によると、だけではなく僕も思うのは重症境界例と統合失調症には対象関係論敵に見ると大きな共通点があるということです。良い対象の取り入れに失敗、悪い対象を排出することができません。迫害感情を持ちます。このあたりはラカンも指摘していること。クラインの系譜は確実に受け継がれたのです。

新宮一成先生はクライニアンではないが夢の構造を分析しています。乳児も境界例も夢の中の混沌とした世界はラカンによる無意識の世界と共通しています。夢=言語は精神分析の発展とともにまさに「取り入れられた」概念です。

明るいだけの被分析者が分析者を頑なに拒否している、臨床家はそんな体験がないでしょうか。松木先生の症例です。母親と分析者の投影同一視、彼女は暗くいることは許されません。だからこそ解釈はあらゆるものが拒否されます。妄想分裂から抑うつ状態への移行、分析者への投影です。

乳児は不要なものを排出することができなければ暗い面の取り入れだけしかすることができません。僕は乳児≒重症境界例≒統合失調症をイメージしてきるが混乱した世界は共通していると思います。混乱は恐怖を呼ぶのです。赤ん坊は排泄物を母親への最高の贈り物です。排出をすることで乳児は健康でいられます。

マスターソンMasterson.J.Fの「自己愛と境界例」中に対象関係論の歴史が書いてあり、母子は融合、共生的自己対象表象。ここには個体分離はないのです。共生的段階は3カ月から18カ月、分離個体化は18カ月から18カ月、対象恒常性は36カ月移行で中途段階を獲得します。Piaget.Jピアジェのシェマは精神分析理論に影響を確実に受けているでしょう。

自己の出現は新しい機能を得る歓びです。個体化への母親の促しとも言えます。子どもが分離個体化をするにつれ自己表象の中の「自己」の知覚の中に統合されていきます。再接近期には適度の欲求不満、失望の体験、それによって自己評価は定まっていくのです。

境界例の自己発達はどこで阻害されるのでしょうか?分離個体化を認めません。全ては共生的だとマスターソンは言います。後年のKohut.Hコフートに影響を与えたろう。分離個体化や依存を捨てたならば境界例は存在しない。俺は泣き叫び依存的で残酷な境界例こそが境界例だと信じている。殺すか殺されるかの究極の愛情です。

撤去型対象関係部分単位WORUにより、母親は乳児から愛情を撤去してしまいます。乳児は愛情を与えられないのてわ報酬型対象関係部分転移RORUに転じてしまう。RORUは病的な自己対象関係。まるでポストトラウマティックプレイのように母の愛を失って何度も繰り返す。そして愛が与えられないのが自己と認識します。
個体化することによって乳児は融合のから外に放たれる危機に晒されるます。偽の自己です。偽りの自己であって、分析や分離個体化に成功したわけでもありません。抑うつ段階は怒りに近いということはDSM-5における子どもの状態の解釈からも可能です。怒りや抑うつ段階の徹底操作です。

分析の中ではこうした転移感情が出てきます。境界例は転移を徹底操作することによって分離個体化が可能になります。自己が機能するようになるとマスターソンは述べていますが、それは抑圧された自己の現出なのでしょうか?境界例を扱っていて失敗するのは元々自己のない症例と思います。

自己は強化されていくものでしょうか?それとも分析者によって植え付けられていくものでしょうか?

ウィニコットについてのマスターソンの解釈です。偽自己の患者は社会的に適応することが可能です。偽の自己と一見適応しているかのような知性化に成功します。しかし偽自己は成功すればするほど自分の偽りに気づくことになります。そうすると分析はその知性化のためにうまくいかないでしょう。

これがウィニコットの症例をマスターソンが分析したひとつの例です。偽自己を果てしなく分析しても成功することはありません。ウィニコットはフロイトに回帰します。本能によって突き動かされるものが真の自己です。外界との接触、恐らく自我は偽の自己に当たるとウィニコットは言います。

マスターソンのウィニコット批判は、真の自己を含んでいます。本能とともに自我の個体分離化の中で内在化される部分にも真の自己は含まれているのです。そこには本能も含まれているのですけれども。

真の自己と偽自己はウィニコットの対象関係論の中核をなしているように思えます。真の自己は自発的で成功した概念です。ウィニコットは真の自我に関してかなり高いレベルを求めている。分離個体化です。創造的、自発性に富み現実感覚を持ち合わせています。

真の自己はそこまでの高みを必要としていないとマスターソンは解釈しています。真の自己を隠す防衛的な機能が偽自己だとマスターソンはウィニコットに論駁していて、真の自己は偽自己によって守られています。むしろ真の自己は全く機能しないどころか存在すらしていません。報酬型部分単位RORUとの同盟でしょう。

ウィニコットが言うほどよい母親good enough motherは幼児の万能感に呼応しているのです。幼児の万能感を手助けしています。マスターソンの理解は一般のそれとは異なっているでしょう。万能感があれば幼児の自我は強くなります。分離個体化のためには十分な愛情があれば「真の自己」は活動を始めるのです。

ほどよい母親は賞賛を惜しみなく与えるというのがマスターソンによるウィニコットの理解です。ほどよくない母親not Google enough motherは幼児にcomplimentを十分に与えません。偽自己を与えることしかできないのです。これは臨床場面でごく普通にいるクライエントさんではないでしょうか。

心理職はこのマスターソンの理解のようにとかく幼児を甘やかす母親の存在の欠落を感じていることは多いと思います。幼児に限りない賞賛を与え続けていたら幼児の自立は促進されるのです。見捨てたままでは成長ができません。クライエントさんは限りない欠乏感を持っているのが境界例です。

※ 対象関係論の世界は海を泳ぐように広いです。まだまだ書き切っているとは思えません。

冒頭に記した松木邦裕先生の「対象関係論を学ぶ」岩崎学術出版社のほか、マスターソンの「自己愛と境界例」星和書店を参考にして書いてみました。

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きょうも
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◯ 臨床心理士試験直前対策

1.序

臨床心理士試験には出題されて公認心理師試験には出ない概念を一覧にしてまとめてみました。

2.精神分析等

⑴ フロイトFreud.S

id、ego、superego
無意識的エネルギー、自我、超自我
libidoリビドー
sex driveでidoを導く

⑵ Adler.A(個人心理学)

ア 5つの基本前提5Basic Assumptions)

(ア)個人の主体性(Creativity)

   個人は存在の最小単位、個人の主体性と
   創造力を重視 
(イ)目的論Teleology
   個人は個体保存と種属保存を行い、なん
   らかの所属を求める。
(ウ)全体論Holism
   個人はそれひとつが分かち難い最小単位
   なので身体と心、意識と無意識は分かち  
   難く結びついている。
(エ)社会統合論Social Embeddedness
   人間はすべて社会的な動物であり対人関
   係によって成り立つ存在である。
(オ)仮想論Fictionalism
   マイナスから相対的なプラスへの志向 

イ 共同体感覚

  人間は野生動物と違って弱い。したがって
 社会的動物として共同体の感覚を持つ。  

ウ 劣等感の克服と個人の優越性を強調、
Freudの性欲理論を否定

⑶ ユングC.Jung.C

libidoは性的なものに限らない。
パーソナリティ理論として内向性−外交性という概念を確立

無意識は個人的無意識−個人の意識下の欲望

集合的無意識−人類に共通の無意識

元型−全く交流がない土地でも同じような芸術、文化が発生、人類に共通の集合的無意識。理想の女性像アニマ、男性像アニムスも共通の元型を示すことがある。

⑷ オットー・ランクRank.O

Freudの直接の弟子、出産時外傷説、出生そのものが外傷である。母親への原固着を解消、無期限に精神分析的かかわりを求めるクライエントに期限設定を設けて外傷を治療する。意志療法(分離するという意志を持たせる)積極療法(短期精神療法)を創始、Freudと決別。

⑸ 正統フロイト派(直接フロイトの薫陶を受
 ける)

Sachs.H
Rank.O
Ferenczi.S
生命分析、身体論、リラクセイション法、外傷論
Eitintingon.M
Jonens.E
Abraham.K
リビドー発達、人類学、芸術学

⑹ 新フロイト派

Fromm.E
著作:「自由からの逃走」ナチズム、権威主義、サディズム、マゾヒズムへの批判
Horney.K
精神分析における男性主義批判、女児の弾痕願望を批判
Sullivan.H.S
公認心理師試験にも出題
participant observation
関与しながらの観察
Fromm.Reichmam.F

Balint.M
基底欠損領域(境界例概念につながる)
著作:「治療論から見た退行」

Kleim.M
対象関係論
原始的防衛機制、フロイトが提唱するより前の乳児期から精神分析の対象。
部分対象関係。母乳が出るおっぱいは良いおっぱい、出ないおっぱいは悪いおっぱい
だんだんそのおっぱいは同一のものであることを知ると全体対象関係

妄想-分裂ポジションは生後6カ月まで。悪い事柄は全て相手のせい。

抑うつポジションは2歳まで。自他の区別がつくと罪悪感が生まれる。全体対象関係概念の獲得

原始的防衛機制例とは

ア 投影同一化
  自分の不安や恐怖、嫌悪感を相手に対して 
 投げかけて正当化
イ 分裂
  splitting良いイメージと悪いイメージ、自
 己に対しても他者に対しても統一しない
ウ 原始的投影
  相手に対して自分の負の感情を向ける、投
 影や投影同一化との相違は分裂が背後にある
エ 原始的否認
現実をなかったことのように否認する。
オ 原始的理想化
  splittingしている一方だけを理想化する。
カ 脱価値化(価値下げ)
  理想化していた相手をこきおろす。
キ 躁的防衛
  抑うつ感情を否定するために敢えて躁的と
 なる。(現代精神医学では双極性障害におい
 てこの概念は否定されています。)

Winicott.D.W
移行対象論transitional object
ライナスの毛布やぬいぐるみのように、母子分離をするための移行となる対象を見つける。

ほどよい母親good enough mother
不完全な母親であったとしても幼児はそれを受け入れて万能感から脱する。そのために母親は完全でいる必要はない。

一人でいられる能力the capacity to be alone

幼児はやがて母親が戻ってくることを信じて待つ、その間は一人でいられる能力です。

Searls.H.F
逆転移論、統合失調症の治療

Erik.H.Erikson
発達段階理論
拙ブログ記事 として書きました。

Kernberk,O、Masterson,Gunderson
境界例研究

Heinz Kohutコフート
自己心理学の提唱者。患者の尊重、自己愛性パーソナリティ研究、自己対象転移、鏡転移、理想化転移、双子転移。依存することを否定しない。

Lacan.J
フランス精神分析。鏡像段階理論。父-の名(超自我)

※ 臨床心理士試験頻出精神分析学者について雑駁ですが羅列しました。シャルコーやベルネイムなどは前精神分析史、ビオン、タウスクなども書いてありませんが精神分析の世界は幅広く奥が深いです。

また、フランクル等現存在分析なども過去に出題されていました。臨床心理士試験は公認心理師試験に出ない領域も出題されます。試験までの期間は短いですが資格を取得したい方をぜひ応援しています。

ここまで書いて思い出したのも失礼な話ですが精神分析の大家なら北川清一郎先生(心理オフィスK) がいらっしゃるではありませんか。北川先生のブログをぜひご参考に。読みやすい記事がまとめられています。

※ アナウンス

従来の「公認心理師試験」カテゴリを
公認心理師試験対策
公認心理師試験制度 に分割しました。

※ 青字をクリックすると飛びます。

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photo&lyric by 𝚜 𝚘 𝚛 𝚊 ໒꒱⋆゚ (@Skyblue_sky_)
生きる上でストレスという負荷を避けて通ることは難しいよね。過度なものは心を患ってしまうけれど、かと言って全くそれがないと、のれんを腕押しするかの如く味気の無いものになってしまう気がする。ほどよい摩擦があることで歯車は噛み合い前へ進むのかも。でもやっぱり…ストレスフリーがいいよね。

◯ 臨床心理士・心理系大学院・公認心理師試験対策・「パーソナリティ障害の診断と治療」
1.序
精神分析の深い知識はこれまで公認心理師試験では出題されていませんでした。しかしながら「精神力動理論」はきちはんとブループリントにも「認知行動理論」と並列させて記載されてきることから、精神分析は公認心理師試験には絶対出ないとは言えません。

また、臨床心理士試験や大学院入試にも精神分析理論は出題されています。
精神分析はパーソナリティと人間の発達段階を理解する上では必須の知識です。これから大学院を受験する方、また大学院在学中の方々にもぜひ人格理論、治療理論として知っておいて欲しい知識です。

そこで「パーソナリティ障害の診断と治療」Nancy McWilliamsナンシーマックウィリアムズ著、成田善弘他2人訳、創元社の精神分析的知見からの発達段階、パーソナリティ障害について記述してある著作を参照し、考察を加えてみます。

2.フロイトの発達段階理論
フロイトの発達段階は

⑴ 口唇期 
小児性欲の中で最も原初的な唇によるリビドー、快楽、したがってこの口唇期固着が阻害されると攻撃的なパーソナリティになりやすいと言われています。)

⑵ 肛門期
小児はトイレットトレーニングを経て排便を我慢することを教えられます。この失敗が過度に許されないしつけをされると収集壁、不潔恐怖のある強迫的なパーソナリティになります。

⑶ エディプス期
男根期とも呼ばれていますが、小児性欲の中では男根期となると、自らにパニスがあることを自覚し「大きくなったらママと結婚するの」と言い、ギリシャ神話のオイディプス王が母を娶って父を殺したという神話に由来しているものです。

ちなみにフロイトは女子はペニスの欠如が空虚感を感じさせるという男尊女卑的な発達段階を考えていたようです。女子のエレクトラ・コンプレックスは父と交わりたいという欲求です。(後年フェミニズムを台頭させた精神分析学者Helene Deutschによって男根期の男性中心の考え方は否定されています。)このエディプス期の成長に失敗すると神経症になると言われています。

3.発達段階の後継

ナンシーマックウィリアムズはどの発達段階理論もこの3段階を踏襲したものと考えています。

ただし、それが防衛と欲動(防衛規制が各発達段階の欲動を規制する。フロイトは抑圧のみをこの発達段階における防衛機制と考えていたようなのですが、フロイトの娘、 Anna Freudアンナ・フロイトは後に10種類の防衛機制を考え出しました。(退行、抑圧、反動形成、分裂、打ち消し、投影、取り入れ、自己への向き換え、自虐、逆転、昇華)これらが発達段階に影響を与えた理論なのか、

自我発達理論Erik Homburger Erikson
エリク・エリクソンや
Jane Loevinger Weissmanによる自我発達理論なのか、 
(これもアンナ・フロイトであり、無意識よりも意識を俎上に上げること)

それとも自己イメージを映し出す他者としての客体的自己、物質的自己、精神的自己、社会的自己なのか、それらのイメージが自己を映し出します。理想化が失敗すればそれが神経症の原因となります。Karen Horney, 新フロイト派カレン・ホーナイがこの立場の代表者的人物です。また、Nancy McWilliamsがそれを視野に入れているのかはわかりませんが鏡に映し出された自己をはっきりと自己と認識するラカンJacques-Marie-Émile Lacanの鏡象段階理論stade du miroir 6〜18カ月がこれに当たるでしょう。

ホーナイは基底的不安が孤独、自己の孤立、神経症の原因としての母親との関係を仮定しています。

実際にはフロイトは肛門期をうまく乗り越えられないと強迫神経症になると主張してはいなく、後年の精神分析家がそれを主張していました。

そしてDaniel Stern, ダニエル・スターンはフロイトの発達段階理論に異を唱え、各発達段階における失敗が神経症の原因のなるという説を痛烈に批判しました。

ガートルード・ブランク及びルビン・ブランクは理論としての自我心理学の葛藤理論、欲動理論、自我心理学的対象関係論、ハルトマンの貢献、エルンスト・クリスの貢献そして技法としての記述的発達診断と発達の視点から精神分析と心理療法の差異、分析治療の開始、治療開始の実際問題、解釈できる転移と解釈できない転移など精神分析を実践的治療技法にまで高めました。

そして最近の研究としてPhyllis Tysonフィリス・タイソンとRobert.L.Tyson
はフロイトから現在に至るまで精神分析理論の統合を目指しています。これは小児、成人にかかわらずです。Phyllis TysonとRobert L. Tysonは、感情的、行動的、認知的、および同時に進化する他の多くのシステムのコンテキストで心理的発達を調べる独自の発達理論も呈示しています。

エリク・エリクソンもMargaret Scheonberger Mahlerマーガレット・マーラーも発達心理学において大きな功績を残しています。とりわけMargaret Scheonberger Mahlerは乳幼児が母親からから離れて最接近するという幼児の不安による再接近期を想定しています。

Margaret Scheonberger Mahler
の発達理論は以下になります。
正常自閉期 0〜2カ月(外界と自分の区別がない)
正常共生期 2〜4カ月(母子一体化)
分化期 4〜6カ月(母親の顔、行動の認知)
練習期前期 8カ月(人見知り行動、他からまた母のところに戻る。はいはいの時期)
練習期後期 1歳頃(母親から離れることが多くなるが不安になるとまた戻る)
再接近期 1歳半頃(後追いをする。自分で行動すると不安になりまた母親に最接近、分離不安)
個体化および対象恒常性の確立期2〜3歳ごろ。(母親と自分の存在が区別さされるようになる)   
エリク・エリクソンErik Homburger Eriksonの発達段階は以下のとおりです。

⑴乳児期infancy
ア 年齢 0〜2歳
イ 得られる力
希望(hope)、期待
ウ 課題
  基本的信頼vs不信感
  trust vs.mistrust
オ 対象
  母親
カ 疑問
  世界は信じるに足りるものなのか?
・対母親とだけの二者関係、世界に対して、助けてくれるだろう、あるいは誰も助けてくれないだろうという不信感の対立です。疑問としては「誰を信じられるか?」で、この時期に授乳、愛着を得られないと否定的信念を獲得してしまいます。(境界性人格障害はこのあたりから基底欠損が生じているのかもしれません。)

⑵幼児前期early childhood
ア 年齢2〜4歳
イ 得られる力
  意思、意欲will
ウ 課題
  自律性、自主性vs恥、羞恥心
  autonomy vs shame
エ 対象
  両親
 ※ ここで初めて父親が出てきて、3者関係が生じます。
オ 疑問
  自分は自分で良いのか?
・幼児前期の課題は、トイレットトレーニング、排泄のコントロールを一人でできるか、更衣を自分でできるかという、自律性にかかわってきます。もちろんこれには失敗することもあるわけで、失敗への不安があるわけすが、ここで成功したら褒められる、失敗しても許されるという感覚があると許されている感覚を身につけて、この時期の課題をクリアできるわけです。

⑶幼児後期(遊戯期)play age
ア 年齢3歳〜5歳
イ 得られる力
  目的意識purpose
ウ 課題
  自発性(積極性)罪悪感initiative vs .guilt
対象
  家族
※ ここで初めて父母以外の家族も対象
 に含まれます。
オ 疑問
  自分はさまざまな事柄を行なって動
 いていいのか?
・探索、道具を使用したり芸術的センスを示すようになります。善悪の区別がつかないとルールを破って叱られることを恐れます。エネルギッシュでもあり、子どもらしい自立心もあれば、罰せられるのではないかというおそれも持っています。

⑷児童期(学童期)scool age
ア 年齢
  5歳〜12歳
イ 得られる力
  能力、有能さcompetency
ウ 課題
  勤勉さ対劣等感
  indstry vs.inferioty
エ 対象
  地域及び学校
オ 疑問
  さまざまな人々や事物が動いている
 この世界の中で自分はどこまで許さ
 れて成就できるか。
・ 小学生時期で課題や宿題が出ます。勉強の楽しさとともに課題も次々と出ます。この時期に大人が叱り付けてしまうと気力をそがれてしまって劣等感を持ってしまいますので褒めるアドバイスが大切です。

⑸青年期adlesence
ア 年齢
  13〜22歳
イ 得られる力
  忠誠fidelity
ウ 課題
  同一性対同一性拡散identity vs.identity confusion
エ 対象
仲間
オ 疑問
自分は何者なのか、何者でいられるのか?
・社会的経験を積んで、学生としての時間を過ごします。また、その中で義務を果たし、力を得ようとします。自分の同一性を確認することができます。

⑹初期青年期young adult
ア 年齢
  22歳〜39歳
イ 得られる力
  愛love
ウ 課題
  親密性対孤立infancy vs.isolation
エ 対象
  友人、パートナー
オ 疑問
  自分は愛することができるか?
・この時期は、仕事、恋愛関係、育児など人生にとっては中核的な課題を抱える時期と言ってもいいでしょう。

⑺成年期後期(壮年期)adulthood
ア 年齢
  40〜64歳
イ 得られる力
世話care
ウ 課題
  ジェネラビリティー(生殖)対停滞
  generativity vs. stagnation
 ※ generativityはエリクソン独自の用
 語です。次世代を育てる能力とも言
 えます。自分の事だけを考えている
 とそれは停滞です。
エ 対象
  家族、同僚
オ 疑問
  自分の人生を当てにできるか?
・管理職として部下を指導しなければならない立場、あるいは子どもの自立を見守る立場です。

⑻老年期(成熟期)mature age
ア 年齢
  65歳〜
イ 得られる力
  賢さwisdom
ウ 課題
  自己統合対絶望ego integrity vs.desapiar
エ 対象
  人類
オ 疑問
  私はこの世にいてよかったのだろう
 か?私は私らしい、いい人生だった
 のだろうか?
・人生の終焉を迎えようとする時にその終了を見据える時期です。エリクソンのころにはサクセスフル・エイジングやエイジング・パラドックスの概念はまだありませんでした。

さて、Nancy McWilliamsはあくまでフロイトの3つの発達段階と他の発達理論の統合を目指しています。そしてとりわけ口唇期固着はより深い病理性を持つと仮定しています。(境界性パーソナリティ障害がこれに当たるのかもしれません。)

4.パーソナリティの組織化の発達水準

さて、Nancy McWilliamsは口唇期は正常人、そして抑うつ的な人はとりわけ固着することを指摘しています。

そして強迫的な人はその行動が問題になっていなくとも強迫的なパーソナリティには肛門期が背景にあります。

Karl Abrahamカール・アーブラハムは精神分析医として神経症より比較して病理性が高い躁うつ病や妄想を持つ患者に対する欲動の体制化に類型づけようとした試みは結局失敗に終わったのだとNancy McWilliamsは結論づけています。

5.自我心理学の前駆的研究及び自我心理学

アブラハムが示した強迫神経症は、現在の強迫神経症よりも病態が重いものでした。

人の自我の発達、自他の峻別(世界観の混乱という点からは統合失調症がかていされているのかと思います。)
、パーソナリティの組織化の健常化と病理性の研究が進み、その実証的証拠が多数存在するとNancy McWilliamsは指摘しています。パーソナリティの組織化が健常でなければその障害が重いことは容易に推測できます。

面接者が患者と会う時にその人をシゾイド、あるいは強迫的水準だと定義することは対象者を病的とは決め付けることはできないけれども自我発達と対象関係によっては病的と言うのと同義と定義しています。つまり自我発達と対象関係の健全さが相手の病的水準を定義しているのです。

自我心理学(Erikson,E.H等)対象関係論(Melanie Kleinら)自己心理学(Kohut,H.)この心理学的の概念が役立つことを示しています。

精神分析学の示している病理水準は性格類型でなく、その人が抱えている困難の重さによって決まるのではないかとも指摘しています。

19世紀、歴史的には精神障害はそれほど重いものでなくとも一般的には狂気としてとらえられていました。

フロイトはその優秀な業績によって、神経症と精神障害の峻別を行いましたがそれは後継者にとって簡単なモデルとはならなかったのはあまりにもその区別が大雑把すぎたからです。

6.自我心理学の診断カテゴリー

一時的な症状による症状神経症、そして神経症的傾向が性格に深く根差している性格神経症は、より病理性の深いものでした。

そしてこの区別は現代診断基準DSMではパーソナリティ障害と定義されています。

この症状神経症か性格神経症(パーソナリティ障害)かは、
⑴ 何か誘因があって生起したものなのか、それとも患者の元々持っていた素因によるものなのか
⑵ 急激な症状の悪化によるものなのかそれとも全般的な感情の増悪なのか
⑶ 患者が一人でやってきたか(病識ある症状神経症)、それとも誰か(家族
、司法関係者)に連れられてらやって来たのか(病識がない性格神経症=パーソナリティ障害) 
⑷ 症状が自我違和的なのか、それともその症状が自我親和的で症状が自らの性格に深く根ざしていて適応のひとつの様式となっているか(パーソナリティ障害)
⑸ 患者はセラピストと協力関係を結ばなければならないが、それが「観察自我」といって自分を見ているもう1人の自分がいるか(症状神経症)、それともセラピストに対して敵対的、または魔法のように解決してくれるか(パーソナリティ障害)

症状神経症ならば患者は幼少期の未解決な葛藤を抱えているだけで、幼少期には役立ったその適応様式が役立たなくなっている、したがって葛藤を解決するためには短期間で終わることもあり得るということです。

そして症状神経症は治療者と協力関係を結んで転移、逆転移の問題が起きてもそれを解決しやすいです。

パーソナリティ障害の場合には患者の性格に深く根ざしたものなのか区別する必要性があります。パーソナリティ障害の治療は患者の性格を再編することです。

7.結語

この書籍は初学者向けの入門書と銘打っていますが、必ずしも面接技法にとって直接的にすぐ役立つものではありません。しかしながら精神分析という、さまざまなパーソナリティ発達理論と、患者さんの適応状態が一時的なものなのかそれともパーソナリティ障害によるものなのか見極めるための知恵が詰め込まれています。精神分析と発達水準を知るための推薦の書と言えるでしょう。

また、本書後半は考えられる限りの全てのパーソナリティ障害について網羅し、あげられています。精神分析的機制からパーソナリティ障害を知ることができる良書と言えます。

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