ひなたあきらのおけまる公認心理師たん

新制度公認心理師の検証をしばらく続け、この制度がよりよいものになるための問題提起を行いつつ、カウンセリングの在り方について考え、最新の情報提供を行っていきます。ほか心理学全般についての考察も進めていきます ブログ運営者:ひなたあきら メールアドレスhimata0630★gmail.com(★を@に変えてください。)

タグ:精神分析

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photo&lyric by sora (@Skylit_Blue)
朝から虹を見つけた。ただそれだけのことで心の隅から隅まで爽やかな風がそよいだ。


◯ ジャック・ラカンへの挽歌

1.序

ついこの間からラカンばかり書いています。ラカンは臨床心理学を学び始めたばかりの僕にとっては言語という営みをカウンセリングの中で行う最大の敵でもあり、苦しいながらも理解しなければならない最大の味方になるとも思っていました。それをきちんと整理し尽くして僕は次のステップに進みたいと思っています。

この強敵を消化し尽くしていかなければならないというのは臨床の知を理解するという義務感からなのでしょうか。精神分析初期には決して扱ってはならなかった精神病圏を自由闊達に飛び回るラカンやビオンから遡るときっと境界例
にも行き着くのだと信じています。

そしてラカンはただ単に衒学的な哲学ではなく今正に目の前にいるクライエントさんのための実践的な臨床の知を提示しているとも思うのです。

2.本文

ラカンについて述べることが衒学的で臨床の知とは関係がないものだとは思わない。言語を使う精神分析学について考えることは俺たちが臨床家としての日常的な営みをすることと深く関係している。鏡像段階の獲得は発達の上で不可欠なものだし、超自我、父の名は人間理解に通じる。

ワロンの自我-他者論は他者の識別は幼児にとっては困難なことを示している。いわゆる「アハ」体験は同一の機制が働いていると考えることができる。

ラカンはそのような一般心理学的見地を演繹しつつフロイト的な視点から鏡像段階理論を展開している。

鏡像段階は、幼児が自己の鏡像を自己の像と認知するに至る生後18カ月以降の年齢段階を示すものとして定義される。(ゲゼルも参照のこと)

鏡像段階以前には幼児が自己の姿を統一性を以って認識できない前鏡像段階があり、それは外界の認知可能な6カ月目から始まる。鏡像段階を獲得するために主体は自己を疎外する同一性を認識しなければならない。

何故ならば、幼児にとって自他未分離な状態は心地よい状態で、鏡像段階を獲得することによって主体の経験する不快さはあるひとつ心像イマーゴを伴い、一生を通じて残るものになるからである。

内界-環界(外界)という概念によって説明することが可能である。鏡像を獲得する事自体不快感を伴う外界への接触の始まりと言い換えられる。前鏡像段階、イド対鏡像段階、非イド的なものという図式が成立する。

それはまた、夢の例示によって説明がなされている。第一にはまず、寸断された身体のイメージである。

分析の過程が進んでいくにつれてしばしば現れる身体のバラバラの象は前鏡像段階への退行である。

また「私の形成」(エクリ)である鏡像段階とイドとの対立は、塹壕で固めた野営地2つの中でそれぞれが身をもがく(本人の身体が分化する)夢に象徴されている。

前述シュレーバー症例では患者が人前で自慰に耽ることが報告されていたが、フロイトによればそれはまた口唇期に見られること自体が自己愛的満足として診断されていた。

エメの症例にはそこまでの退行は見られなかった。ただしシュレーバー症例を参照することにより、あるひとつの契機として働いていたと考えることは可能だろう。自己愛は対象愛に移行する過程で中間の様相として自己愛の現象を発見できる。

正常なリビドーの発達はそのように進んでいく。固着Fixierungが起こると、あるいは退行によって妨げられることにことによって内界は快であり、外界は不快である、という図式-前鏡像段階の状態に主体は閉じ込められることになると言えるだろう。

またしかし、この鏡像段階の獲得こそが「パラノイア性の自己疎外」の準備段階であり「孤立化過程」でもあると見られている。(エクリ)

塹壕の夢では、その外傷的な段階は防禦的工事を施した建造物の出現によって隠喩としてそれが示されていると言えるだろう。

ラカンがそれを換喩としてではなく隠喩であると綴ったのは、隠喩で書かれた文章は記号表現と記号内容の不一致がそこに見受けられるからであり、記号表現が何も意味を持たない上に、メッセージとしての表現と表現との関係が対等であるという点に集約されるだろう。

夢はまたひとつのテクストであり、そこからは「雪の肌」の表現に見受けられるような比喩の自由さが求められている。

家族の三角形の理論に言及していきたい。フロイトの「エディプスの三角形」の中ではまず、幼児にとっての最も原初的リビドーの対象は母親であると述べられている。

男根期に頂点に到達するこの時期について、ラカンは母親との双数的関係によってとらえられる「想像界」と呼びならわす。また、このような母親とだけとの関係についてではなく、父親をも含めた世界は「象徴界」と言われ、結局エディプス期は父親=象徴界=法の世界への同一視によって達成される。

そのような社会化、象徴界の過程の一時期とらえられるのだが、社会化が決して肯定的な意味を以って捉えられるのではないという事は内界-環界との対立に主体が出て行く事によって外傷を蒙るという鏡像段階の図式ともまた同様である。

すなわち「言語-法」の獲得により主体は自らを疎外していくのだと言えよう。社会化の過程の中で自我・他者を区別する必要に迫られることを追究したのはワロンも同様であり、ラカンとの類似点も多く指摘されている。

ワロンによれば、子どもは生後2〜3カ月までは周囲と一体であり、身辺の世話をしてくれる大人がいなければ自身も不在となり、2人遊びの可能になる7〜8カ月期を経て初めて「私」という言葉を正しく使うようになる。

丸山圭三郎「ソシュールを読む」岩波セミナーブックス2参照「デンシャ、デンシャ」と習い立ての単語を一生懸命呟いていては思いあぐねた様子で「ママ、デンシャって人間なの?それともお人形なの?」という3歳の女児を例示したい。

丸山は感覚=運動的知能から思考的な知能へと移行する象徴化過程を言語の意味論的な分節行為の中に示すが、ワロンの問いかけはより根源的である。

鏡像の自分は、自分から見る異なった複数よりも識別の分節化はより難しく、それが可能となるのは意識にらおいて自我Moiと他者l'Autreがほぼ同時に形成されるのを待たなければならないと述べられている。

その峻別はまた、「内なる他者」※前掲(身体・自我・社会/アンリ・ワロン)と呼ばれる社会的自我によって完成される、というのも第2の自我である内なる他者を通してまた他の個人「他者」に連絡を取っていくからである。

結局「内なる他者」とは現実には不在の自分の鏡像を想定した他者であり、また小児にとっては遊びの中の仲間意識を通して形成されていくものであるのだが、エディプス的な母親との双数的関係から小児を疎外して行く父親こそは大文字の他者Grand Autreである。

疎外され続けける主体はラカンによって、そもそもの初めにおいて空虚であり、何も持たないものとして定義される。フロイトによる、自己愛から自体愛を経て対象愛に至るまでの対象を持たない段階はphallus=空虚=penisである。
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「自分の身体で自分自ら満足している状態」(ナルシシズム入門)は口唇期に見られるおしゃぶりを代表とする状態であり、Sが欲望の対象を持つにはMの登場を待たなければならない。しかしその欲望はまたS=主体−M母親だけの単独の関係のみで成立するわけではない。

S→MはP父→S主体の矢印を以って初めて理解されうる。P父→M母の欲望の流れというメッセージをSが与えられる事によって、初めてP→Sのコミュニケーションが成立し、主体は母親への欲望を持つに至る。

そしてこの→(矢印)こそは記号表現シニファンである。すなわち、主体P→MとP→Sという2つのシニファンを受け取り、S→Mという欲望の流れを完成させる。

主体とは他者からの対話である。エクリ(他者)である父親の欲望を以って主体は欲望を持つに至るのだと言うことができる。

また、この場合にはPは現実の父親ではなく、父親によって象徴される父親の欲望であると理解する事ができる。従って、Pを「父−の−名」Noms-du-Pèreラカン思想の中核概念と表記する事ができる。

a'は大文字の他者l’Autreではなく小文字の他者l'autreである。そしてまた主体にとって自我の理想でもあり、現実の父親でも有るのだが、主体によって気付かれてはいない。

なぜ俺がラカンを書き続けるのかというと以前描いたラカンのシェーマ図式Lまで引っ張り出してきて、ラカンを俺の中で完全に葬り去りたいから。ラカンを書き作ることによってラカンを自らの歴史としてしてきた過去をしっかりと自分のものとしながらも訣別したいというアンビバレンツな感情。

母親と主体との関係、S→Mの欲望も主体には気付かれていない。それは象徴的symboliqueなものであり、この三者の関係を象徴界の三角形と呼ぶ。主体はこの象徴界の中では何にも拠り所のない空虚な存在だと言える。

それは先に述べた記号表現シニファンの記号内容シニフィエに対する優位という概念を使います「父親の隠喩」という運動公式によっても説明がなされている。

運動公式、というのはそれぞれの要素がまた他の要素に対して運動を要請する、という点においてその言葉が使用されるからである。
今日はここまで。ここからが少し煩瑣になる。

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何かを手放し何かを掴んで ໒꒱⋆゚

◯ 臨床心理士試験直前・境界性パーソナリティと対象関係論

最近院生らから標題の件について聞かれることが多くなり、本稿を書くことにしました。

以下自分のtweetをまとめたものです。

クライニアンにとっては松木邦裕先生「対象関係論を学ぶ−クライン派精神分析入門」岩崎学術出版社初版1996年は決して古くなることのない対象関係論が学べる一冊だと思う。フロイトから始まり、クライン、ウィニコット、ビオンが散りばめられている。この1冊で精神分析が俯瞰できる。

行きつ戻りつ俺も自由連想法的に書いて行くが、ビオンの野心はコンテイナーという概念で統合失調症患者の精神分析療法を試みたことだと思う。人間の内的世界は夢の世界、そして現実という外界が混乱している無意識世界を扱うということがビオンの試みと思う。

ビオンは間違いなく無意識世界的は出産前から存在していたと考えていた。ビオンはクラインの分析を受けた第2世代で、対象関係論の系譜を辿れば難解とも言われているがビオン抜きでは語れないのだと思う。自我心理学者は出産前には記憶は存在しないと考えている。ロザンフェルドも大きく寄与した。

視覚がまだぼんやりとしている段階でも乳児は母親の乳房、乳首にすがりついて自らの栄養を得ることを知っている。それは対象関係論においては断片であるものの、断片が結びついて乳児の内的世界は成立していく。

あらゆる芸術作品、絵画は具象的なものを指しているのではない。カンディンスキーに始まった抽象画はダリやミロなどの画家に引き継がれていく。混乱した象徴世界は未だばらばらの対象を示している。ちなみにこれらの言説は俺だけの対象関係論理解だ。ラカンも言っていたかも知れん。

自己と世界の対立は部分対象群と全体的対象に分かれるだろう。出生時に自己は母親の胎内で癒着しているというのがウィニコットや基底欠損領域で有名なバリントの思考ではないか。ここ境界例概念の萌芽を見ることができると思う。

多分精神的には母と幼児のこうした癒着はほかの発達心理学者から見ると3歳になるまで自立が達成されないと考えている。愛着障害はここでの愛情剥奪で起きてそして境界例になっていくというのが俺の見方。後年のコフートは自己心理学を確立したが自己愛は対象関係論にとっては自他未分離の状態。

やはり後年になるがラカンはクライニアンではないかと思う。鏡像段階理論は自己と他者の峻別。ウィニコットは自我と母親が一体化した状態を経て分離されていくと考えた。従来精神分析は神経症患者にしか適用されないとしてきたものが重い境界例=精神病患者の自他未分離な状態にも対象関係論は有効。

ウィニコットは自己と他者の分離は母親という対象を意識しながらなお精神的自立を考えていたのではないか?世界没落妄想は精神分析ではないが多くの統合失調症患者に見られる。性的快楽、オルガスムは恐怖の対象でありそして希求される原初的欲求。いつも相反する概念がつきまとう。

ここに来てフロイトに戻るとエロスと死の本能タナトスになる。奇しくもフロイトは統合失調症の治療理論の基礎を築いたとも言える。小児性欲理論は乳児の内界で乳房をよい対象、悪い対象として未分離なものとして、解体された存在。

だからこそまた進むけれどもビオンのコンテイナー概念は赤子を守ると同様に統合失調症患者を外界から守る術ともなる。ビオンは内的な乳児の不安は排泄できるものとしてとらえていた。乳児は不安の排泄に母親の乳房を利用する。空腹感は満たされる。
母親は乳児を癒せる物思いにふける。

ここでまた考える。対象関係論的には排泄物は乳児から母親への贈り物。贈り物とは一体なんだろう。精神科の門をくぐることに必死に抵抗した患者は1年後に医師により多くの薬を求めるようになる。治療という快楽に必要な薬というプレゼント。

対象関係論におけるファンタジーは悪い物として意識されると自他未分離で統合失調症患者の世界没落、身体異常感覚、セネストパチーにも似ている。不安と一体化した自己からそれを切り離すスプリッティング概念はここから始まるのだろう。乳児は絶えず迫害不安に脅かされている。

クラインが妄想−分裂態勢として提唱したのは、迫害の妄想性不安、部分自己対象群、分裂機制としての投影同一視、自己と対象の再融合、身体感覚。これらはクラインが築いた発達理論とも言える。精神分析における転移は分析家と自己の同一視。そして迫害不安から抑うつ状態に移行する。

対象関係論:クライン 良い乳房と悪い乳房が実は同じものであることがわかった時に乳児はこれまで乳首を噛んで傷つけて来た対象が同一だったということを知る。乳児は乳房を自分が傷つけてしまった対象だと自覚する。そうすると乳房は乳児の罪悪感とともに傷つきと死んだ対象として自覚される。

良い乳房と悪い乳房が同一であったことを知ると乳児は果てしない罪悪感をいだき抑うつ、絶望感、孤独を抱く。それは良い対象はの罪悪感でもある。抑うつ不安。そして抑うつ態勢。妄想-分裂性からの変化は2歳ぐらいまで続く。

乳児は出生後半年までには妄想-分裂態勢を獲得している。そして2歳の抑うつ態勢。クラインの発達段階理論はフロイトが2歳から5歳に至るまでの口唇期モデルよりもずっと早く成立している。クラインの抑うつ態勢は乳房を全体対象として自覚する。自己の中の自己破壊衝動と戦うことになる。

乳児はこの罪悪感の中を生きていかなければならない。母を思いやること。愛情の萌芽。感謝。成長過程で母の死去、母が去っていくことは果てしない罪悪感を子どもに抱かせる。傷つけた対象の復活を信じられなくなる。悔いは押し付けられた罪悪感、迫害的罪悪感となる。

クラインの概念の独特さは躁的償いや躁的防衛。このマニックさは現代精神医学では認められていない。クラインの「躁的」は抑うつからの脱却のためにはマニーにならないと自己を守れないことを示している。

ここで投影同一化について触れておきたい。乳房が悪い。嫌いという概念から、自己と対象の分離が起こる。対象の象徴が可能になる。この段階での失敗はきっと境界例となっていくだろう。投影同一化が成功すれば対象は分離されて愛着を抱ける。

アンビバレンツな対象に対する気持を抱くこと。迫害的罪悪感は乳児に押し付けられで強要される。成人になってもこの罪悪感が持ち越されると躁的になるというのがクラインの仮説、罪悪感への耐えられなさ。対象化は自己や愛情対象のパートナーにまで及ぶ。

クラインは発達段階について語る。paranoid shizold妄想分列態勢Psから抑うつdepresslveD態勢への移行。Psは被害。迫害的。恋愛の中でもPsやDへの移行は常に起こり受る。そして分析の中でも起こるこのpsとDとの繰り返しの末に怖い父(後年のラカンの「父-の-名」に相似)悪い母親は分析者に投影。

そしてパートナーや学校、職場の人間関係に持ち越されるとそれは分析者にとっても転移tranceferenceになり、後年ビオンが研究した逆転移counter tranceferetese となる。いずらにせよ境界例治療の中で起こりうるのは転移や逆転移の中に恋愛要素が持ち込まれやすいこと。未分化な自己が持ち込まれる。

分析者は鏡であって万能な神ではないり迫害的、抑うつは必ず起こりうる。迫害的不安と抑うつ不安は必ず行き来して苦しめる。統合失調症、paranoid、パーソナリティ障害にもつながる。

防衛機制そのものは幅広く使われている概念で、先に挙げた投影同一視のような不健全な機制度を福む心的機制と言える。防衛規制がなければ人間の心の脆弱性は見る影もなく生きていくことすら難しいのかもしれない。不安を体外に排泄する乳児はまた不安を戻し、母親の包み込む機能も取り入れ可能。

排出とは乳児にとっては切り離すという作業。それがなければ恐怖に脅かされて生きていくことは難しい。排出として外に出すことは自己の危険を外に出すこと。その危険や不安は乳児が自らの中に見ている嫌なものの投影に過ぎない。投影同一化はさらに相手に対する高いを抱く。

対象関係論におけるsplitting、投影同一視、取り入れ同一化は実は母親が本能的に子育てをする中でわかっていると対象関係論を見る上で松木邦裕先生は解釈しています。乳児の不快さは切り離され、排出される。そして母親がそれを受け入れてコンテイニングする。投影と排出は相対している概念。

取り入れが乳児に起きるということは乳児にとっては母親のよい対象を自分の中に取り入れintrojectionをしていくということ。そして取り入れ同一化と内在化が起きる。取り入れはかなり強力な力をもって乳児の心理の中に刷り込まれることになるだろう。

乳児の内界は取り入れと投影projection。松木先生は投影と投影同一視を乳児の中で起きる必然的な心性として描いているが多分教科書的概念としては投影は当然起こりうるもの、そして投影同一視は不健全なものとしてとらえられているのだろう。投影同一視はより精神病的な概念。

投影同一視は例えば佐藤が「高橋は俺のことを嫌っているに違いない、だから俺は高橋が嫌いだ」当の高橋さんは「佐藤って誰だ?」と言う。この投影同一視が投影同様乳児の中で起きているとすれば、後年ビオンが解釈さたようなコンテイニング機能は乳児にも統合失調症世界の中で不断に起きている。

健康的な投影同一視が普通の人にも起こりうるというのが松木先生の解釈。スポーツ選手に入れ込んで投影同一視をする。そしてまた松木先生が分析者に対する被分析者の投影について指摘する。投影によって被分析者は「偉い先生はこう言っていた」俺はこの心性はより境界例的な機制だと思う。

松木先生の挙げる例は摂食障害。摂食障害は確かに取り入れと排出型の食べ吐きが行われていれば全くもって分析的には病識のない病。分析的には理解が可能だけれども分析者は無力さを感じざるを得ない。双方向からの投影が起きているのだと俺は思う。

投影が病的なものとして理解されるように取り入れもまた病的なものとして理解される。対象ととしてイチローを思い浮かべる。万能人。取り入れが不可能になってしまうということはモデルも自己にとっての良い対象の取り入れができない。as if personality、「かのような人」松木先生は言う。

俺はこの「かのような人」は境界例においてよく起こり得ると思う。境界例の人にとって自我同一性を獲得するのは困難。誰かを称賛してまた別の誰かになる。その間にはその「誰か」に対する激しいこきおろしが存在する。重症境界例と精神病の違いは激しい論争を引き起こした。

投影が健全なものとして起こり得るのであれば、感動する映画を見て泣くのはカタルシスの排出。あまりにも衝撃的なことが起きて排出ができない。不健全な感情は取り入れたままになってしまう。投影は迫害的な存在の写し鏡。

松木先生は投影と投影同一視をほぼほぼ同じ概念として扱われているのだと思う。松木先生もそれに反する潮流があることは指摘している。カーンバーグやグロットスタイン。俺は投影はより健康なものだと思う。松木先生はいずれにせよコンテインは対象の中に同一視が起こるという。

精神病水準で起こる病的投影同一視。妄想-分裂態勢の同一視は迫害されている体験として起こり得る。松木先生の例証「人を殺そうと思ったことはない」攻撃性の排出、取り入れはより健全に排出される。俺は精神病水準でこの排出が行われるということは元々この人が激しい攻撃性を内包していたと思う。

「サトラレ」は対象が起こす迫害や攻撃性を取り入れられないために起こる心性だと俺は思う。松木先生は空想-現実の妄想-分裂態勢と理解する。発達段階としての抑うつ状態は転移として解釈されるという。多分重症境界例なのだろう。恋愛性転移は激しく起こる。

恋愛性転移が排出されないという被分析者側の恐怖。理想化対象としての分析者。精神分析の間だけ起こり得るものではないことを境界例を扱った臨床家はみな知っている。しかしその理解には分析的視点が役立つことを多くの治療者は知らない。

分裂してしまうという感情は境界例にとっては果てしない恐怖。松木先生は理想化-絶望感がその中で起こるという。分析においてのこの解決は徹底操作によって解決可能なのだろうか。俺は境界例の治療の困難さは分析によって可能だと思う。

松木先生の論によると、だけではなく俺自身が思うのは重症境界例と統合失調症には対象関係論敵に見ると大きな共通点があるということ。良い対象の取り入れに失敗、悪い対象を排出することができない。迫害感情を持つ。このあたりはラカンも指摘していること。クラインの系譜は確実に受け継がれた。

新宮一成先生はクライニアンではないが夢の構造を分析している。乳児も境界例も夢の中の混沌とした世界はラカンによる無意識の世界と共通している。夢=言語は精神分析の発展とともにまさに「取り入れられた」概念。

明るいだけの被分析者が分析者を頑なに拒否している、臨床家はそんな体験がないだろうか。松木先生の症例。母親と分析者の投影同一視。彼女は暗くいることは許されない。だからこそ解釈はあらゆるものが拒否される。妄想分列から抑うつ状態への移行。分析者への投影。

乳児は不要なものを排出することができなければ暗い面の取り入れだけしかすることができない。俺は乳児≒重症境界例≒統合失調症をイメージしてきるが混乱した世界は共通している。混乱は恐怖を呼ぶ。赤ん坊は排泄物を母親への最高の贈り物とする。排出をすることで乳児は健康でいられる。

マスターソン。「自己愛と境界例」中に対象関係論の歴史が書いてある。母子は融合する。共生的自己対象表象。ここには個体分離はない。共生的段階は3カ月から18カ月、分離個体化は18カ月から18カ月、対象恒常性は36カ月移行で中途段階を獲得。ピアジェのシェマは精神分析理論に影響を確実に受けている。

自己の出現は新しい機能を得る歓び。個体化への母親の促し。子どもが分離個体化をするにつれ自己表象の中の「自己」の知覚の中に統合されていく。再接近期には適度の欲求不満、失望の体験、それによって自己評価は定まっていく。

境界例の自己発達はどこで阻害されるのか?分離個体化を認めない。全ては共生的だとマスターソンは言う。後年のコフートに影響を与えたろう。分離個体化や依存を捨てたならば境界例は存在しない。俺は泣き叫び依存的で残酷な境界例こそが境界例だと信じている。殺すか殺されるかの究極の愛情。

撤去型対象関係部分単位WORUにより、母親は乳児から愛情を撤去してしまう。乳児は愛情を与えられないのてわ報酬型対象関係部分転移RORUに転じてしまう。RORUは病的な自己対象関係。まるでポストトラウマティックプレイのように母の愛を失って何度も繰り返す。そして愛が与えられないのが自己と認識する。

個体化することによって乳児は融合のから外に放たれる危機に晒される。偽の自己。偽りの自己であって、分析や分離個体化に成功したわけでもない。抑うつ段階は怒りに近いということはDSM-5における子どもの状態の解釈からも可能。怒りや抑うつ段階の徹底操作。

分析の中ではこうした転移感情が出てくる。境界例。転移を徹底操作することによって分離個体化が可能になる。自己が機能するようになるとマスターソンは述べているがそれは抑圧された自己の現出なのだろうか。俺は境界例を扱っていて失敗するのは元々自己のない症例と思う。

自己は強化されていくものか?それとも分析者によって植え付けられていくものか?

ウィニコットについてのマスターソンの解釈。偽自己の患者は社会的に適応することが可能。偽の自己と一見適応しているかのような知性化に成功する。しかし偽自己は成功すればするほど自分の偽りに気づくことになる。そうすると分析はその知性化のためにうまくいかないだろう。

これがウィニコットの症例をマスターソンが分析したひとつの例。偽自己を果てしなく分析しても成功することはない。ウィニコットはフロイトに回帰する。本能によって突き動かされるものが真の自己。外界との接触、恐らく自我は偽の自己に当たるとウィニコットは言う。

マスターソンのウィニコット批判は、真の自己を含んでいる。本能とともに自我の個体分離化の中で内在化される部分にも真の自己は含まれている。そこには本能も含まれているのだけれども。

真の自己と偽自己はウィニコットの対象関係論の中核をなしているように思える。真の自己は自発的で成功した概念。ウィニコットは真の自我に関してかなり高いレベルを求めている。分離個体化。創造的、自発性に富み現実感覚を持ち合わせている。

真の自己はそこまでの高みを必要としていないとマスターソンは解釈する。真の自己を隠す防衛的な機能が偽自己だとマスターソンはウィニコットに論駁する。真の自己は偽自己によって守られている。むしろ真の自己は全く機能しないどころか存在すらしていない。報酬型部分単位RORUとの同盟。

ウィニコットが言うほどよい母親good enough motherは幼児の万能感に呼応する。幼児の万能感を手助けする。マスターソンの理解は一般のそれとは異なっているだろう。万能感があれば幼児の自我は強くなる。分離個体化のためには十分な愛情があれば「真の自己」は活動を始める。

ほどよい母親は賞賛を惜しみなく与えるというのがマスターソンによるウィニコットの理解。ほどよくない母親not Google enough motherは幼児にcomplimentを十分に与えない。偽自己を与えることしかできない。これは臨床場面でごく普通に俺たちが当たるクライエントではないか。

俺たち心理職はこのマスターソンの理解のようにとかく幼児を甘やかす母親の存在の欠落を感じていることは多いと思う。幼児に限りない賞賛を与え続けていたら幼児の自立は促進される。見捨てたままでは成長ができない。クライエントは限りない欠乏感を持っているのが境界例。

※ 対象関係論の世界は海を泳ぐように広いです。まだまだ書き切っているとは思えません。

冒頭に記した松木邦裕先生の「対象関係論を学ぶ」岩崎学術出版社のほか、マスターソンの「自己愛と境界例」星和書店を参考にして書いてみました。

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◯ 臨床心理士試験直前対策

1.序

臨床心理士試験には出題されて公認心理師試験には出ない概念を一覧にしてまとめてみました。

2.精神分析等

⑴ フロイトFreud.S

id、ego、superego
無意識的エネルギー、自我、超自我
libidoリビドー
sex driveでidoを導く

⑵ Adler.A(個人心理学)

ア 5つの基本前提5Basic Assumptions)

(ア)個人の主体性(Creativity)

   個人は存在の最小単位、個人の主体性と
   創造力を重視 
(イ)目的論Teleology
   個人は個体保存と種属保存を行い、なん
   らかの所属を求める。
(ウ)全体論Holism
   個人はそれひとつが分かち難い最小単位
   なので身体と心、意識と無意識は分かち  
   難く結びついている。
(エ)社会統合論Social Embeddedness
   人間はすべて社会的な動物であり対人関
   係によって成り立つ存在である。
(オ)仮想論Fictionalism
   マイナスから相対的なプラスへの志向 

イ 共同体感覚

  人間は野生動物と違って弱い。したがって
 社会的動物として共同体の感覚を持つ。  

ウ 劣等感の克服と個人の優越性を強調、
Freudの性欲理論を否定

⑶ ユングC.Jung.C

libidoは性的なものに限らない。
パーソナリティ理論として内向性−外交性という概念を確立

無意識は個人的無意識−個人の意識下の欲望

集合的無意識−人類に共通の無意識

元型−全く交流がない土地でも同じような芸術、文化が発生、人類に共通の集合的無意識。理想の女性像アニマ、男性像アニムスも共通の元型を示すことがある。

⑷ オットー・ランクRank.O

Freudの直接の弟子、出産時外傷説、出生そのものが外傷である。母親への原固着を解消、無期限に精神分析的かかわりを求めるクライエントに期限設定を設けて外傷を治療する。意志療法(分離するという意志を持たせる)積極療法(短期精神療法)を創始、Freudと決別。

⑸ 正統フロイト派(直接フロイトの薫陶を受
 ける)

Sachs.H
Rank.O
Ferenczi.S
生命分析、身体論、リラクセイション法、外傷論
Eitintingon.M
Jonens.E
Abraham.K
リビドー発達、人類学、芸術学

⑹ 新フロイト派

Fromm.E
著作:「自由からの逃走」ナチズム、権威主義、サディズム、マゾヒズムへの批判
Horney.K
精神分析における男性主義批判、女児の弾痕願望を批判
Sullivan.H.S
公認心理師試験にも出題
participant observation
関与しながらの観察
Fromm.Reichmam.F

Balint.M
基底欠損領域(境界例概念につながる)
著作:「治療論から見た退行」

Kleim.M
対象関係論
原始的防衛機制、フロイトが提唱するより前の乳児期から精神分析の対象。
部分対象関係。母乳が出るおっぱいは良いおっぱい、出ないおっぱいは悪いおっぱい
だんだんそのおっぱいは同一のものであることを知ると全体対象関係

妄想-分裂ポジションは生後6カ月まで。悪い事柄は全て相手のせい。

抑うつポジションは2歳まで。自他の区別がつくと罪悪感が生まれる。全体対象関係概念の獲得

原始的防衛機制例とは

ア 投影同一化
  自分の不安や恐怖、嫌悪感を相手に対して 
 投げかけて正当化
イ 分裂
  splitting良いイメージと悪いイメージ、自
 己に対しても他者に対しても統一しない
ウ 原始的投影
  相手に対して自分の負の感情を向ける、投
 影や投影同一化との相違は分裂が背後にある
エ 原始的否認
現実をなかったことのように否認する。
オ 原始的理想化
  splittingしている一方だけを理想化する。
カ 脱価値化(価値下げ)
  理想化していた相手をこきおろす。
キ 躁的防衛
  抑うつ感情を否定するために敢えて躁的と
 なる。(現代精神医学では双極性障害におい
 てこの概念は否定されています。)

Winicott.D.W
移行対象論transitional object
ライナスの毛布やぬいぐるみのように、母子分離をするための移行となる対象を見つける。

ほどよい母親good enough mother
不完全な母親であったとしても幼児はそれを受け入れて万能感から脱する。そのために母親は完全でいる必要はない。

一人でいられる能力the capacity to be alone

幼児はやがて母親が戻ってくることを信じて待つ、その間は一人でいられる能力です。

Searls.H.F
逆転移論、統合失調症の治療

Erik.H.Erikson
発達段階理論
拙ブログ記事 として書きました。

Kernberk,O、Masterson,Gunderson
境界例研究

Heinz Kohutコフート
自己心理学の提唱者。患者の尊重、自己愛性パーソナリティ研究、自己対象転移、鏡転移、理想化転移、双子転移。依存することを否定しない。

Lacan.J
フランス精神分析。鏡像段階理論。父-の名(超自我)

※ 臨床心理士試験頻出精神分析学者について雑駁ですが羅列しました。シャルコーやベルネイムなどは前精神分析史、ビオン、タウスクなども書いてありませんが精神分析の世界は幅広く奥が深いです。

また、フランクル等現存在分析なども過去に出題されていました。臨床心理士試験は公認心理師試験に出ない領域も出題されます。試験までの期間は短いですが資格を取得したい方をぜひ応援しています。

ここまで書いて思い出したのも失礼な話ですが精神分析の大家なら北川清一郎先生 がいらっしゃるではありませんか。北川先生のブログをぜひご参考に。読みやすい記事がまとめられています。

※ アナウンス

従来の「公認心理師試験」カテゴリを
公認心理師試験対策
公認心理師試験制度 に分割しました。

※ 青字をクリックすると飛びます。

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photo&lyric by 𝚜 𝚘 𝚛 𝚊 ໒꒱⋆゚ (@Skyblue_sky_)
生きる上でストレスという負荷を避けて通ることは難しいよね。過度なものは心を患ってしまうけれど、かと言って全くそれがないと、のれんを腕押しするかの如く味気の無いものになってしまう気がする。ほどよい摩擦があることで歯車は噛み合い前へ進むのかも。でもやっぱり…ストレスフリーがいいよね。

◯ 臨床心理士・心理系大学院・公認心理師試験対策・「パーソナリティ障害の診断と治療」
1.序
精神分析の深い知識はこれまで公認心理師試験では出題されていませんでした。しかしながら「精神力動理論」はきちはんとブループリントにも「認知行動理論」と並列させて記載されてきることから、精神分析は公認心理師試験には絶対出ないとは言えません。

また、臨床心理士試験や大学院入試にも精神分析理論は出題されています。
精神分析はパーソナリティと人間の発達段階を理解する上では必須の知識です。これから大学院を受験する方、また大学院在学中の方々にもぜひ人格理論、治療理論として知っておいて欲しい知識です。

そこで「パーソナリティ障害の診断と治療」Nancy McWilliamsナンシーマックウィリアムズ著、成田善弘他2人訳、創元社の精神分析的知見からの発達段階、パーソナリティ障害について記述してある著作を参照し、考察を加えてみます。

2.フロイトの発達段階理論
フロイトの発達段階は

⑴ 口唇期 
小児性欲の中で最も原初的な唇によるリビドー、快楽、したがってこの口唇期固着が阻害されると攻撃的なパーソナリティになりやすいと言われています。)

⑵ 肛門期
小児はトイレットトレーニングを経て排便を我慢することを教えられます。この失敗が過度に許されないしつけをされると収集壁、不潔恐怖のある強迫的なパーソナリティになります。

⑶ エディプス期
男根期とも呼ばれていますが、小児性欲の中では男根期となると、自らにパニスがあることを自覚し「大きくなったらママと結婚するの」と言い、ギリシャ神話のオイディプス王が母を娶って父を殺したという神話に由来しているものです。

ちなみにフロイトは女子はペニスの欠如が空虚感を感じさせるという男尊女卑的な発達段階を考えていたようです。女子のエレクトラ・コンプレックスは父と交わりたいという欲求です。(後年フェミニズムを台頭させた精神分析学者Helene Deutschによって男根期の男性中心の考え方は否定されています。)このエディプス期の成長に失敗すると神経症になると言われています。

3.発達段階の後継

ナンシーマックウィリアムズはどの発達段階理論もこの3段階を踏襲したものと考えています。

ただし、それが防衛と欲動(防衛規制が各発達段階の欲動を規制する。フロイトは抑圧のみをこの発達段階における防衛機制と考えていたようなのですが、フロイトの娘、 Anna Freudアンナ・フロイトは後に10種類の防衛機制を考え出しました。(退行、抑圧、反動形成、分裂、打ち消し、投影、取り入れ、自己への向き換え、自虐、逆転、昇華)これらが発達段階に影響を与えた理論なのか、

自我発達理論Erik Homburger Erikson
エリク・エリクソンや
Jane Loevinger Weissmanによる自我発達理論なのか、 
(これもアンナ・フロイトであり、無意識よりも意識を俎上に上げること)

それとも自己イメージを映し出す他者としての客体的自己、物質的自己、精神的自己、社会的自己なのか、それらのイメージが自己を映し出します。理想化が失敗すればそれが神経症の原因となります。Karen Horney, 新フロイト派カレン・ホーナイがこの立場の代表者的人物です。また、Nancy McWilliamsがそれを視野に入れているのかはわかりませんが鏡に映し出された自己をはっきりと自己と認識するラカンJacques-Marie-Émile Lacanの鏡象段階理論stade du miroir 6〜18カ月がこれに当たるでしょう。

ホーナイは基底的不安が孤独、自己の孤立、神経症の原因としての母親との関係を仮定しています。

実際にはフロイトは肛門期をうまく乗り越えられないと強迫神経症になると主張してはいなく、後年の精神分析家がそれを主張していました。

そしてDaniel Stern, ダニエル・スターンはフロイトの発達段階理論に異を唱え、各発達段階における失敗が神経症の原因のなるという説を痛烈に批判しました。

ガートルード・ブランク及びルビン・ブランクは理論としての自我心理学の葛藤理論、欲動理論、自我心理学的対象関係論、ハルトマンの貢献、エルンスト・クリスの貢献そして技法としての記述的発達診断と発達の視点から精神分析と心理療法の差異、分析治療の開始、治療開始の実際問題、解釈できる転移と解釈できない転移など精神分析を実践的治療技法にまで高めました。

そして最近の研究としてPhyllis Tysonフィリス・タイソンとRobert.L.Tyson
はフロイトから現在に至るまで精神分析理論の統合を目指しています。これは小児、成人にかかわらずです。Phyllis TysonとRobert L. Tysonは、感情的、行動的、認知的、および同時に進化する他の多くのシステムのコンテキストで心理的発達を調べる独自の発達理論も呈示しています。

エリク・エリクソンもMargaret Scheonberger Mahlerマーガレット・マーラーも発達心理学において大きな功績を残しています。とりわけMargaret Scheonberger Mahlerは乳幼児が母親からから離れて最接近するという幼児の不安による再接近期を想定しています。

Margaret Scheonberger Mahler
の発達理論は以下になります。
正常自閉期 0〜2カ月(外界と自分の区別がない)
正常共生期 2〜4カ月(母子一体化)
分化期 4〜6カ月(母親の顔、行動の認知)
練習期前期 8カ月(人見知り行動、他からまた母のところに戻る。はいはいの時期)
練習期後期 1歳頃(母親から離れることが多くなるが不安になるとまた戻る)
再接近期 1歳半頃(後追いをする。自分で行動すると不安になりまた母親に最接近、分離不安)
個体化および対象恒常性の確立期2〜3歳ごろ。(母親と自分の存在が区別さされるようになる)   
エリク・エリクソンErik Homburger Eriksonの発達段階は以下のとおりです。

⑴乳児期infancy
ア 年齢 0〜2歳
イ 得られる力
希望(hope)、期待
ウ 課題
  基本的信頼vs不信感
  trust vs.mistrust
オ 対象
  母親
カ 疑問
  世界は信じるに足りるものなのか?
・対母親とだけの二者関係、世界に対して、助けてくれるだろう、あるいは誰も助けてくれないだろうという不信感の対立です。疑問としては「誰を信じられるか?」で、この時期に授乳、愛着を得られないと否定的信念を獲得してしまいます。(境界性人格障害はこのあたりから基底欠損が生じているのかもしれません。)

⑵幼児前期early childhood
ア 年齢2〜4歳
イ 得られる力
  意思、意欲will
ウ 課題
  自律性、自主性vs恥、羞恥心
  autonomy vs shame
エ 対象
  両親
 ※ ここで初めて父親が出てきて、3者関係が生じます。
オ 疑問
  自分は自分で良いのか?
・幼児前期の課題は、トイレットトレーニング、排泄のコントロールを一人でできるか、更衣を自分でできるかという、自律性にかかわってきます。もちろんこれには失敗することもあるわけで、失敗への不安があるわけすが、ここで成功したら褒められる、失敗しても許されるという感覚があると許されている感覚を身につけて、この時期の課題をクリアできるわけです。

⑶幼児後期(遊戯期)play age
ア 年齢3歳〜5歳
イ 得られる力
  目的意識purpose
ウ 課題
  自発性(積極性)罪悪感initiative vs .guilt
対象
  家族
※ ここで初めて父母以外の家族も対象
 に含まれます。
オ 疑問
  自分はさまざまな事柄を行なって動
 いていいのか?
・探索、道具を使用したり芸術的センスを示すようになります。善悪の区別がつかないとルールを破って叱られることを恐れます。エネルギッシュでもあり、子どもらしい自立心もあれば、罰せられるのではないかというおそれも持っています。

⑷児童期(学童期)scool age
ア 年齢
  5歳〜12歳
イ 得られる力
  能力、有能さcompetency
ウ 課題
  勤勉さ対劣等感
  indstry vs.inferioty
エ 対象
  地域及び学校
オ 疑問
  さまざまな人々や事物が動いている
 この世界の中で自分はどこまで許さ
 れて成就できるか。
・ 小学生時期で課題や宿題が出ます。勉強の楽しさとともに課題も次々と出ます。この時期に大人が叱り付けてしまうと気力をそがれてしまって劣等感を持ってしまいますので褒めるアドバイスが大切です。

⑸青年期adlesence
ア 年齢
  13〜22歳
イ 得られる力
  忠誠fidelity
ウ 課題
  同一性対同一性拡散identity vs.identity confusion
エ 対象
仲間
オ 疑問
自分は何者なのか、何者でいられるのか?
・社会的経験を積んで、学生としての時間を過ごします。また、その中で義務を果たし、力を得ようとします。自分の同一性を確認することができます。

⑹初期青年期young adult
ア 年齢
  22歳〜39歳
イ 得られる力
  愛love
ウ 課題
  親密性対孤立infancy vs.isolation
エ 対象
  友人、パートナー
オ 疑問
  自分は愛することができるか?
・この時期は、仕事、恋愛関係、育児など人生にとっては中核的な課題を抱える時期と言ってもいいでしょう。

⑺成年期後期(壮年期)adulthood
ア 年齢
  40〜64歳
イ 得られる力
世話care
ウ 課題
  ジェネラビリティー(生殖)対停滞
  generativity vs. stagnation
 ※ generativityはエリクソン独自の用
 語です。次世代を育てる能力とも言
 えます。自分の事だけを考えている
 とそれは停滞です。
エ 対象
  家族、同僚
オ 疑問
  自分の人生を当てにできるか?
・管理職として部下を指導しなければならない立場、あるいは子どもの自立を見守る立場です。

⑻老年期(成熟期)mature age
ア 年齢
  65歳〜
イ 得られる力
  賢さwisdom
ウ 課題
  自己統合対絶望ego integrity vs.desapiar
エ 対象
  人類
オ 疑問
  私はこの世にいてよかったのだろう
 か?私は私らしい、いい人生だった
 のだろうか?
・人生の終焉を迎えようとする時にその終了を見据える時期です。エリクソンのころにはサクセスフル・エイジングやエイジング・パラドックスの概念はまだありませんでした。

さて、Nancy McWilliamsはあくまでフロイトの3つの発達段階と他の発達理論の統合を目指しています。そしてとりわけ口唇期固着はより深い病理性を持つと仮定しています。(境界性パーソナリティ障害がこれに当たるのかもしれません。)

4.パーソナリティの組織化の発達水準

さて、Nancy McWilliamsは口唇期は正常人、そして抑うつ的な人はとりわけ固着することを指摘しています。

そして強迫的な人はその行動が問題になっていなくとも強迫的なパーソナリティには肛門期が背景にあります。

Karl Abrahamカール・アーブラハムは精神分析医として神経症より比較して病理性が高い躁うつ病や妄想を持つ患者に対する欲動の体制化に類型づけようとした試みは結局失敗に終わったのだとNancy McWilliamsは結論づけています。

5.自我心理学の前駆的研究及び自我心理学

アブラハムが示した強迫神経症は、現在の強迫神経症よりも病態が重いものでした。

人の自我の発達、自他の峻別(世界観の混乱という点からは統合失調症がかていされているのかと思います。)
、パーソナリティの組織化の健常化と病理性の研究が進み、その実証的証拠が多数存在するとNancy McWilliamsは指摘しています。パーソナリティの組織化が健常でなければその障害が重いことは容易に推測できます。

面接者が患者と会う時にその人をシゾイド、あるいは強迫的水準だと定義することは対象者を病的とは決め付けることはできないけれども自我発達と対象関係によっては病的と言うのと同義と定義しています。つまり自我発達と対象関係の健全さが相手の病的水準を定義しているのです。

自我心理学(Erikson,E.H等)対象関係論(Melanie Kleinら)自己心理学(Kohut,H.)この心理学的の概念が役立つことを示しています。

精神分析学の示している病理水準は性格類型でなく、その人が抱えている困難の重さによって決まるのではないかとも指摘しています。

19世紀、歴史的には精神障害はそれほど重いものでなくとも一般的には狂気としてとらえられていました。

フロイトはその優秀な業績によって、神経症と精神障害の峻別を行いましたがそれは後継者にとって簡単なモデルとはならなかったのはあまりにもその区別が大雑把すぎたからです。

6.自我心理学の診断カテゴリー

一時的な症状による症状神経症、そして神経症的傾向が性格に深く根差している性格神経症は、より病理性の深いものでした。

そしてこの区別は現代診断基準DSMではパーソナリティ障害と定義されています。

この症状神経症か性格神経症(パーソナリティ障害)かは、
⑴ 何か誘因があって生起したものなのか、それとも患者の元々持っていた素因によるものなのか
⑵ 急激な症状の悪化によるものなのかそれとも全般的な感情の増悪なのか
⑶ 患者が一人でやってきたか(病識ある症状神経症)、それとも誰か(家族
、司法関係者)に連れられてらやって来たのか(病識がない性格神経症=パーソナリティ障害) 
⑷ 症状が自我違和的なのか、それともその症状が自我親和的で症状が自らの性格に深く根ざしていて適応のひとつの様式となっているか(パーソナリティ障害)
⑸ 患者はセラピストと協力関係を結ばなければならないが、それが「観察自我」といって自分を見ているもう1人の自分がいるか(症状神経症)、それともセラピストに対して敵対的、または魔法のように解決してくれるか(パーソナリティ障害)

症状神経症ならば患者は幼少期の未解決な葛藤を抱えているだけで、幼少期には役立ったその適応様式が役立たなくなっている、したがって葛藤を解決するためには短期間で終わることもあり得るということです。

そして症状神経症は治療者と協力関係を結んで転移、逆転移の問題が起きてもそれを解決しやすいです。

パーソナリティ障害の場合には患者の性格に深く根ざしたものなのか区別する必要性があります。パーソナリティ障害の治療は患者の性格を再編することです。

7.結語

この書籍は初学者向けの入門書と銘打っていますが、必ずしも面接技法にとって直接的にすぐ役立つものではありません。しかしながら精神分析という、さまざまなパーソナリティ発達理論と、患者さんの適応状態が一時的なものなのかそれともパーソナリティ障害によるものなのか見極めるための知恵が詰め込まれています。精神分析と発達水準を知るための推薦の書と言えるでしょう。

また、本書後半は考えられる限りの全てのパーソナリティ障害について網羅し、あげられています。精神分析的機制からパーソナリティ障害を知ることができる良書と言えます。

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◯ 前世療法、精神分析、トラウマと偽の記憶財団と司法面接

ずらりと用語を並べただけのようですが、人の記憶はその繋がりをどこかに紡ぎ出します。

それが真実なのか、錯覚なのか、妄想なのかよくわからない、明らかにしなけらばならない領域とそうでない領域の間でカウンセリングをしているカウンセラー、クライエントさんも多いと思います。

例えば箱庭療法は置かれた玩具をセラピストとクライエント2人で片付け、イマジネーションの世界から現実に戻ろうとします。

昔の文献を読み漁っていて、箱庭で炎を使って燃やした、箱庭に水をぶちまけたという、クライエントさんの激しいアクティングアウト、行動化を読んだのを思い出します。

箱庭に限らず退行を促すカウンセリング手法や、あるいは認知行動療法でも古典的条件付けにしたがって、セッションの最初にフラッディングと呼ばれる嫌悪刺激を怒涛のごとくぶつけるという技法はクライエントさんに徐反応と呼ばれる「反応」を引き起こします。

(認知行動療法では徐反応という用語は認めていません。)

僕も何回か見たことがありますがカウンセリングのセッションにおける徐反応は、激しい怒りの感情や動揺がこれでもかというぐらい表出されます。

これがすぐに看護師さんを呼べばリスパダールやセルシン注射で鎮静化させられて終わりかもしれませんがトラウマは残ったままになります。

現代催眠原論(金剛出版)でも書かれているように徐反応が起きたら徹底して(自傷の危険がない限り)徐反応を起こしてもらうのがトラウマティックな体験の解決に繋がります。

徐反応の間は解離して記憶がなくなっているので「あれ?何だっけ?でもすっきりしたなあ」

というのはセラピストとクライエントさんの共同作業による感情処理の上手な方法でしょう。

ヒーラーや民間のヒプノセラピーで前世療法を使う治療者がいます。

これはエビデンスも何もあったものではないのですが、「使えるものは何でも使う」精神科医、セラピストにとっては前世療法家が「あなたが前世で見たトラウマに苦しめられている」

「今あなたの頭の中に蘇った記憶はあなたの父親が16歳ぐらいの時にいじめられた体験かしらね。それであなたが今苦しんでいるのよ」

という前世療法家の言葉を再評価したセラピストが「じゃあ現世はどうなの?」

という問いかけに対して前世と現世、そして未来との繋がりから得られる洞察は、クライエントさんの無意識の奥に沈潜化した何かに訴えかけるものがあるでしょう。

催眠は運動支配催眠(ピタッと両手のひらがくっついて離れない)に比べれば記憶支配催眠(前世療法、あとから催眠時に言われたことを覚醒してから実行する後催眠暗示)は比較的難しいと言われています。

催眠の真偽の「闘い」の歴史は長く、1930年代、色街がなく姪などの近親者へ性の対象が向かった心的外傷を「そんなわけないだろう」とヒステリーと精神分析は否定しまくっていていました。

構造主義哲学者、精神分析学者のLacan,Jも外傷体験そのものを自らの理論に取り入れませんでした。

トラウマ研究者第一人者ジュディス・ハーマンHerman,J.L.はトラウマや性的虐待研究の第一人者ですが、裁判の場では敗訴することが多く、アメリカではカウンセリングで偽の記憶を作り出す偽の記憶財団False Memory Syndrome Foundationとの拮抗はいまだ決着はついていません。

結局心理の世界でこういった被害者の受けた虐待の真偽について確認するのは司法面接です。

司法面接は決して誘導せず、ただ一回だけの面接で虐待の有無を判定する、検察官、警察、児相、家裁調査官が真剣勝負で挑みます。

司法面接の現場では「知らない」「もうイヤ」「帰りたい」を連発する子どものトラウマ離脱のテクニックが面接者を困惑させます。

現代精神分析はトラウマ治療と相反するものではなく、精神分析家北川清一郎先生の事務所ではトラウマに特化したEMDR治療者が北川先生を含めて複数います。

司法面接でその存在が確定した虐待には「ケア」の視点を持つことが大切ですが、児童心理司は心理治療的面接を行う時間がなさすぎるとアンケートで回答しています。

トラウマ=治療対象という概念が広まって来たのはそれほど昔のことではありません。

伊藤詩織さんが刑事事件で門前払いされた事案ついて考えると、日本の司法はまだまだ先行きが暗澹としたままです。

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