ひなたあきらのおけまる公認心理師たん

新制度公認心理師の検証をしばらく続け、この制度がよりよいものになるための問題提起を行いつつ、カウンセリングの在り方について考え、最新の情報提供を行っていきます。ほか心理学全般についての考察も進めていきます ブログ運営者:ひなたあきら メールアドレスhimata0630★gmail.com(★を@に変えてください。)

タグ:対象関係論

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掴めそうな煌めく未来。


◯ 公認心理師りゆさんの「知の輸血」

※ 序(ひなた記載)

FFの方で精神分析に詳しく、対象関係論などにいろいろとコメントをいただいている、りゆさん
りゆ (臨床心理士・公認心理師。本大好きっ!!)@iriko_riyu
にDMで寄稿をしていただきました。


※ ちなみに奥様のアーティストninaさんnina@Hoshineko_nina

りゆさんのtweetを見るとフェレット好き、とても心優しい方とお見受けしています。

フェレットのことを「本」と書いてあったので誤記ではないか、また写真にはダックスフンドもいるのでそのことについて聞いたところ

「あ、あと、ダックスフンドのこっこは、今年5月、15歳半で亡くなりました。故・こっこも加えて頂けますと幸いです。フェレットは、本当は「匹」なんですが、YouTubeの「イタチは麺類」というチャンネルのファンでして、そこのフェレット飼い主さんが、4匹いるフェレットにみんな麺類の名前を付けておられるので、パクリです。通じるひとには通じますが、「匹」のほうが無難でしょうか?^^」とのことでした。

1.自己紹介・現況

中学生からの幼馴染の妻とフェレット2本と暮らしています。学生相談や非常勤講師、行政(生活保護課心理ケア係、自殺対策係)、クリニック等経由しています。遊ぶことがほんとうに苦手というか、抑止されているので、プレイの経験なし。院生のころから、ずっと成人の言語面接ばかりやっています。精神病水準~神経症水準の方全般の面接経験はありますが、振り返ってみると境界例水準で機能している方が多かったように思います。

2.依って立つ学派・なぜその学派に興味を持ったか

精神分析諸派(フロイト・クライン派・独立学派・自己心理学派等)、CBTが主。
出会った順番としては、クライン派→フロイト→自己心理学派→独立学派という感じです。
CBTの勉強は、以前「自分は精神分析使いだけれど、CBTの道も知りたい」と訴えて勤めさせていただいたクリニックが、ACT含めてCBT専門外来だったので、そこから続けています。

院生のころの「受容・共感」の4文字が慣用的にはびこる、そのくせにロジャースを読むこともないつまらない講義の中、任期付き特任教授で来られていたお師匠さんの「クラインは、赤ん坊は生まれてきた絶望のために泣いていると言ったんや」という講義での発言に惹かれ(自分の世界観に近かったので)、研究室を訪れてからは沼でした。(でも「赤ん坊は~・・・」は、ランクじゃないのかな・・・今思うと)そこから、お師匠さんから紹介された松木邦裕先生の「対象関係論を学ぶ クライン派精神分析入門」で衝撃を受け、一通り松木先生の著作に触れ、わからなすぎて泣きながらクラインの著作集を読み進め、クライン派の論客をとにかく読み進め、7年くらい、精神分析に関しては、クライン、ビオン、ローゼンフェルト、タスティン等、クライン派(と、フロイト)一色でした。それから藤山直樹先生、細澤仁先生、祖父江典人先生らに開かれていった感じです。

臨床経験を重ねるうちに、クライン派の破壊性や羨望のテーマだけではやはり目が狭いと感じ(今、クライン派の論客の一人、ベティ・ジョセフの論文集を読んでいますが、やはりそう感じます)、その時に持っていたケースに応じて、自己心理学派、独立学派への関心が出、特に独立学派は、私自身がいろいろとバランスがとれていない極端なところがある人間なので、ウィニコットの「遊び」や発達論、バリントなど、自由豊饒な理論家たちに惹かれ、今クライン派と並んで、勉強量は多いです。あとは、細澤仁先生の影響を受け、時々フェレンツィを読んでます。あとはオグデンとか。

3.精神分析とりゆさんとのかかわり

精神分析自体、理論、思想、あるいは芸術と多方面な性質を有しつつ、豊饒な人間ドラマを常に内包し続けてきた稀有な事象・生き物であると感じており、フロイトはじめ先達の理論だけでなく歴史や、私生活での様子、成育歴、人生観にも興味を持って学んでいます。

もちろん学問、研究対象、治療法としての精神分析とのかかわりでもあるのですが、精神分析の理論は、私にとってはそれ自体、生きた対話の相手でもあります。
作家さんが時々仰る、「自分はストーリーを考えているのではなくて、ストーリーが自発的に生き始めて、私はそれを辿っているだけ」というのに、似ている気がします。
「生き物」というか、精神分析という生き物の息吹、動的、ダイナミズムの脈音との対話を、諸理論を通して行っているという感じです。これは、他の心理療法理論にはない魅力に思います。もちろん、私自身が長く精神疾患持ちであることもあるのでしょうが、文学と並ぶか、今ではそれ以上に自分を成すものとなっています。

4.読書という果てしない海の中の冒険
読書が海なら、常に嵐ですね。文学もその傾向はありますが、ここまで大嵐にはなりませんでした。主体として関わる質と度合いの差によるものでしょうが、精神分析理論は、多くは苦悩を抱えた理論家たち自身が、自らの血肉のかたちを変えるようにして理論を残し、発展を託したものであるからか、まるで「輸血」されたような、体験世界の変容を伴い続けます。
・・・「輸血」、見ようによってはおどろおどろしい限りなんですが、そのおどろおどろしさ、生々しさ、入魂された分析家たちの血の温もりや粘りを内外に感じ続けることが、私の血肉を腐らせずにいるように思います。

5.これからやっていきたいこと、臨床に活かす分析の知識
心理療法(あえてカウンセリングとは言いませんでしたが)、それも、臨床家たちが自分を賭して生き残った英知という意味での心理療法の普及に、尽力したいです。

「臨床に活かす分析の知識」としては、私が最も興味を持っているのは、いわゆる「死の本能(欲動)」と「反復強迫」、ここにつきます。

6.「りゆ」の由来
HNを決めるときは、音の響きと字のかたちで決めています。が、思い返せば中学生のときから一貫して、「ゾンビ屋れい子」という、古いですが一部でカルト的人気のあるスプラッタ・ホラー漫画に登場する「百合川サキ」のファンなので、「ゆり→りゆ」なのかも。
高校~大学院までつけていた文学読書ブログ「CotoAra。」では、(まだネットには残っていますが)では、たしか「ツキミ」→「小津りゆ」を名乗ってました。「小津」は、当時読んでいた漫画、「コッペリオン」から、女優であり連続殺人犯としてちらっと登場する「小津句音」から名字を拝借しました。なお、「CotoAra」は、私が一度だけ書いてUPしていたオリジナル小説、「琴と嵐と泥雪と」(データなし)の略称です。

※ りゆさんから大変貴重な知見を描いていただきまして誠にありがとうございます。対象関係論オンリーの方かと思っていたのがCBT、ACTと幅広く学びを体験されているからこそ深みがある文書なのだと感心しました。これからも体験に基づく貴重なコメントをいただければ幸いです。

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おはようTwitter

きょうも
何かを手放し何かを掴んで ໒꒱⋆゚

◯ 臨床心理士試験直前・境界性パーソナリティと対象関係論

最近院生や受験生たちから臨床心理士試験対策や課題提出に標題の件について聞かれることが多くなり、本稿を書くことにしました。

クライニアンにとっては松木邦裕先生「対象関係論を学ぶ−クライン派精神分析入門」岩崎学術出版社初版1996年は決して古くなることのない対象関係論が学べる一冊だと思います。Freud.Sフロイトから始まり、Klein.Mクライン、Winnicott.D.Wウィニコット、Bion.W.Rビオンが散りばめられています。この1冊で精神分析が俯瞰できるのです。

行きつ戻りつ僕も自由連想法的に書いていきますが、ビオンの野心はcontainerコンテイナーという概念で統合失調症患者の精神分析療法を試みたことだと思います。人間の内的世界は夢の世界、そして現実という外界が混乱している無意識世界を扱うということがビオンの試みと思うのです。

ビオンは間違いなく無意識世界的は出産前から存在していたと考えていました。ビオンはクラインの分析を受けた第2世代で、対象関係論の系譜を辿れば難解とも言われているがビオン抜きでは語れないのだと思います。自我心理学者は出産前には記憶は存在しないと考えていて、Rosenfeld.H.Aロザンフェルドも大きく寄与しました。

視覚がまだぼんやりとしている段階でも乳児は母親の乳房、乳首にすがりついて自らの栄養を得ることを知っています。それは対象関係論においては断片であるものの、断片が結びついて乳児の内的世界は成立していくのです。

あらゆる芸術作品、絵画は具象的なものを指しているのではなく、カンディンスキーに始まった抽象画はダリやミロなどの画家に引き継がれています。混乱した象徴世界は未だばらばらの対象を示しているのです。ちなみにこれらの言説は対象関係論理解ではラカンも言っていたかも知れません。

自己と世界の対立は部分対象群と全体的対象に分かれれます。出生時に自己は母親の胎内で癒着しているというのがウィニコットや基底欠損領域で有名なBalnt.Mバリントの思考ではないでしょうか。ここ境界例概念の萌芽を見ることができると思います。

多分精神的には母と幼児のこうした癒着はほかの発達心理学者から見ると3歳になるまで自立が達成されないと考えています。愛着障害はここでの愛情剥奪で起きてそして境界例になっていくというのが僕の解釈です。後年のコフートは自己心理学を確立したが自己愛は対象関係論にとっては自他未分離の状態ということ。

やはり後年になりますが、Lacan.Jラカンはクライニアンではないかと思っているのです。鏡像段階理論は自己と他者の峻別です。ウィニコットは自我と母親が一体化した状態を経て分離されていくと考えていました。従来精神分析は神経症患者にしか適用されないとしてきたものが重い境界例=精神病患者の自他未分離な状態にも対象関係論は有効です。

ウィニコットは自己と他者の分離は母親という対象を意識しながらなお精神的自立を考えていたのではないのでしょうか?世界没落妄想は精神分析ではないのですが多くの統合失調症患者に見られます。性的快楽、オルガスムは恐怖の対象でありそして希求される原初的欲求。いつも相反する概念がつきまとっています。

ここに来てフロイトに戻るとエロスと死の本能タナトス概念を作りました。奇しくもフロイトは統合失調症の治療理論の基礎を築いたとも言えます。小児性欲理論は乳児の内界で乳房をよい対象、悪い対象として未分離なものとして、解体された存在です。

だからこそまた進んで考えますけれどもビオンのコンテイナー概念は赤子を守ると同様に統合失調症患者を外界から守る術ともなります。ビオンは内的な乳児の不安は排泄できるものとしてとらえていました。乳児は不安の排泄に母親の乳房を利用するのですり空腹感は満たされ母親は乳児を癒せる物思いにふけります。

ここでまた考えると、対象関係論的には排泄物は乳児から母親への贈り物です。贈り物とは一体なんでしょうか。精神科の門をくぐることに必死に抵抗した患者は1年後に医師により多くの薬を求めるようになります。治療という快楽に必要な薬というプレゼントです。

対象関係論におけるファンタジーは悪い物として意識されると自他未分離で統合失調症患者の世界没落、身体異常感覚、セネストパチーにも似ています。不安と一体化した自己からそれを切り離すスプリッティング概念はここから始まるのでしょう。乳児は絶えず迫害不安に脅かされています。

クラインが妄想−分裂態勢として提唱したのは、迫害の妄想性不安、部分自己対象群、分裂機制としての投影同一視、自己と対象の再融合、身体感覚です。これらはクラインが築いた発達理論とも言えます。精神分析における転移は分析家と自己の同一視です。そして迫害不安から抑うつ状態に移行します。

対象関係論:クライン 良い乳房と悪い乳房が実は同じものであることがわかった時に乳児はこれまで乳首を噛んで傷つけて来た対象が同一だったということを知ります。乳児は乳房を自分が傷つけてしまった対象だと自覚する。そうすると乳房は乳児の罪悪感とともに傷つきと死んだ対象として自覚されるのです。

良い乳房と悪い乳房が同一であったことを知ると乳児は果てしない罪悪感をいだき抑うつ、絶望感、孤独を抱きます。それは良い対象はの罪悪感です。抑うつ不安。そして抑うつ態勢です。妄想-分裂性からの変化は2歳ぐらいまで続きます。

乳児は出生後半年までには妄想-分裂態勢を獲得していきます。そして2歳の抑うつ態勢。クラインの発達段階理論はフロイトが2歳から5歳に至るまでの口唇期モデルよりもずっと早く成立しているのです。クラインの抑うつ態勢は乳房を全体対象として自覚します。自己の中の自己破壊衝動と戦うことになるのです。

乳児はこの罪悪感の中を生きていかなければならないのです。母を思いやること。愛情の萌芽。感謝。成長過程で母の死去、母が去っていくことは果てしない罪悪感を子どもに抱かせる。傷つけた対象の復活を信じられなくなります。悔いは押し付けられた罪悪感、迫害的罪悪感となります。

クラインの概念の独特さは躁的償いや躁的防衛概念です。このマニックさは現代精神医学では認められていません。クラインの「躁的」は抑うつからの脱却のためにはマニーにならないと自己を守れないことを示しているのです。

ここで投影同一化について触れておきます。乳房が悪い。嫌いという概念から、自己と対象の分離が起こるります。対象の象徴が可能になるのです。この段階での失敗はきっと境界例となっていくでしょう。投影同一化が成功すれば対象は分離されて愛着を抱けます。

アンビバレンツな対象に対する気持を抱くこと。迫害的罪悪感は乳児に押し付けられで強要されるのです。成人になってもこの罪悪感が持ち越されると躁的になるというのがクラインの仮説、罪悪感への耐えられなさ。対象化は自己や愛情対象のパートナーにまで及びます。

クラインは発達段階について語ります。paranoid shizold妄想分列態勢Psから抑うつdepresslveD態勢への移行。Psは被害。迫害的。恋愛の中でもPsやDへの移行は常に起こり得ます。そして分析の中でも起こるこのpsとDとの繰り返しの末に怖い父(後年のラカンの「父-の-名」に相似)悪い母親は分析者に投影されるのです。

そしてパートナーや学校、職場の人間関係に持ち越されるとそれは分析者にとっても転移tranceferenceになり、後年ビオンが研究した逆転移counter tranceferetese となります。いずれにせよ境界例治療の中で起こりうるのは転移や逆転移の中に恋愛要素が持ち込まれやすいこと。未分化な自己が持ち込まれるのてです。

分析者は鏡であって万能な神ではないり迫害的、抑うつは必ず起こり得ます。迫害的不安と抑うつ不安は必ず行き来して苦しめます。統合失調症、paranoid、パーソナリティ障害にもつながるのです。

防衛機制そのものは幅広く使われている概念で、先に挙げた投影同一視のような不健全な機制度を福む心的機制と言えます。防衛規制がなければ人間の心の脆弱性は見る影もなく生きていくことすら難しいのかもしれません。不安を体外に排泄する乳児はまた不安を戻し、母親の包み込む機能も取り入れ可能です。

排出とは乳児にとっては切り離すという作業です。それがなければ恐怖に脅かされて生きていくことは難しいでしょう。排出として外に出すことは自己の危険を外に出すことです。その危険や不安は乳児が自らの中に見ている嫌なものの投影に過ぎません。投影同一化はさらに相手に対する高いを抱きます。

対象関係論におけるsplitting、投影同一視、取り入れ同一化は実は母親が本能的に子育てをする中でわかっていると対象関係論を見る上で松木邦裕先生は解釈しています。乳児の不快さは切り離され、排出されるのです。そして母親がそれを受け入れてコンテイニングする。投影と排出は相対している概念です。

取り入れが乳児に起きるということは乳児にとっては母親のよい対象を自分の中に取り入れintrojectionをしていくということで、そして取り入れ同一化と内在化が起きる。取り入れはかなり強力な力をもって乳児の心理の中に刷り込まれることになるでしょう。

乳児の内界は取り入れと投影projectionです。松木先生は投影と投影同一視を乳児の中で起きる必然的な心性として描いているが多分教科書的概念としては投影は当然起こりうるもの、そして投影同一視は不健全なものとしてとらえられているのだろう。投影同一視はより精神病的な概念です。

投影同一視は例えば佐藤が「高橋は俺のことを嫌っているに違いない、だから俺は高橋が嫌いだ」当の高橋さんは「佐藤って誰だ?」と言います。この投影同一視が投影同様乳児の中で起きているとすれば、後年ビオンが解釈さたようなコンテイニング機能は乳児にも統合失調症世界の中で不断に起きています。

健康的な投影同一視が普通の人にも起こりうるというのが松木先生の解釈です。スポーツ選手に入れ込んで投影同一視をします。そしてまた松木先生が分析者に対する被分析者の投影について指摘しています。投影によって被分析者は「偉い先生はこう言っていた」俺はこの心性はより境界例的な機制だと思うのです。

松木先生の挙げる例は摂食障害です。摂食障害は確かに取り入れと排出型の食べ吐きが行われていれば全くもって分析的には病識のない病でしょう。分析的には理解が可能だけれども分析者は無力さを感じざるを得ない。双方向からの投影が起きているのだと思います。

投影が病的なものとして理解されるように取り入れもまた病的なものとして理解されます。対象ととしてイチローを思い浮かべてみます。例えば万能人です。取り入れが不可能になってしまうということはモデルも自己にとっての良い対象の取り入れができません。as if personality、「かのような人」松木先生は言います。

僕はこの「かのような人」は境界例においてよく起こり得ると思うのです。境界例の人にとって自我同一性を獲得するのは困難です。誰かを称賛してまた別の誰かになります。その間にはその「誰か」に対する激しいこきおろしが存在します。重症境界例と精神病の違いは激しい論争を引き起こしました。

投影が健全なものとして起こり得るのであれば、感動する映画を見て泣くのはカタルシスの排出します。あまりにも衝撃的なことが起きて排出ができないのです。不健全な感情は取り入れたままになってしまい、投影は迫害的な存在の写し鏡となります。

松木先生は投影と投影同一視をほぼほぼ同じ概念として扱われているのだと思うのです。松木先生もそれに反する潮流があることは指摘しています。カーンバーグやグロットスタインです。投影はより健康なものだと思います。松木先生はいずれにせよコンテインは対象の中に同一視が起こると言います。

精神病水準で起こる病的投影同一視、妄想-分裂態勢の同一視は迫害されている体験として起こり得るでしょう。松木先生の例証「人を殺そうと思ったことはない」攻撃性の排出、取り入れはより健全に排出されるのです。精神病水準でこの排出が行われるということは元々この人が激しい攻撃性を内包していたと思います。

「サトラレ」は対象が起こす迫害や攻撃性を取り入れられないために起こる心性だと松木先生は空想-現実の妄想-分裂態勢と理解することができます。発達段階としての抑うつ状態は転移として解釈されるというのです。多分重症境界例なのでしょう。恋愛性転移は激しく起こります。

恋愛性転移が排出されないという被分析者側の恐怖です。理想化対象としての分析者です。精神分析の間だけ起こり得るものではないことを境界例を扱った臨床家はみな知っています。しかしその理解には分析的視点が役立つことを多くの治療者は知らないのです。

分裂してしまうという感情は境界例にとっては果てしない恐怖です。松木先生は理想化-絶望感がその中で起こると言います。分析においてのこの解決は徹底操作によって解決可能なのでしょうか?僕は境界例の治療の困難さは分析によって可能だと思います。

松木先生の論によると、だけではなく僕も思うのは重症境界例と統合失調症には対象関係論敵に見ると大きな共通点があるということです。良い対象の取り入れに失敗、悪い対象を排出することができません。迫害感情を持ちます。このあたりはラカンも指摘していること。クラインの系譜は確実に受け継がれたのです。

新宮一成先生はクライニアンではないが夢の構造を分析しています。乳児も境界例も夢の中の混沌とした世界はラカンによる無意識の世界と共通しています。夢=言語は精神分析の発展とともにまさに「取り入れられた」概念です。

明るいだけの被分析者が分析者を頑なに拒否している、臨床家はそんな体験がないでしょうか。松木先生の症例です。母親と分析者の投影同一視、彼女は暗くいることは許されません。だからこそ解釈はあらゆるものが拒否されます。妄想分裂から抑うつ状態への移行、分析者への投影です。

乳児は不要なものを排出することができなければ暗い面の取り入れだけしかすることができません。僕は乳児≒重症境界例≒統合失調症をイメージしてきるが混乱した世界は共通していると思います。混乱は恐怖を呼ぶのです。赤ん坊は排泄物を母親への最高の贈り物です。排出をすることで乳児は健康でいられます。

マスターソンMasterson.J.Fの「自己愛と境界例」中に対象関係論の歴史が書いてあり、母子は融合、共生的自己対象表象。ここには個体分離はないのです。共生的段階は3カ月から18カ月、分離個体化は18カ月から18カ月、対象恒常性は36カ月移行で中途段階を獲得します。Piaget.Jピアジェのシェマは精神分析理論に影響を確実に受けているでしょう。

自己の出現は新しい機能を得る歓びです。個体化への母親の促しとも言えます。子どもが分離個体化をするにつれ自己表象の中の「自己」の知覚の中に統合されていきます。再接近期には適度の欲求不満、失望の体験、それによって自己評価は定まっていくのです。

境界例の自己発達はどこで阻害されるのでしょうか?分離個体化を認めません。全ては共生的だとマスターソンは言います。後年のKohut.Hコフートに影響を与えたろう。分離個体化や依存を捨てたならば境界例は存在しない。俺は泣き叫び依存的で残酷な境界例こそが境界例だと信じている。殺すか殺されるかの究極の愛情です。

撤去型対象関係部分単位WORUにより、母親は乳児から愛情を撤去してしまいます。乳児は愛情を与えられないのてわ報酬型対象関係部分転移RORUに転じてしまう。RORUは病的な自己対象関係。まるでポストトラウマティックプレイのように母の愛を失って何度も繰り返す。そして愛が与えられないのが自己と認識します。
個体化することによって乳児は融合のから外に放たれる危機に晒されるます。偽の自己です。偽りの自己であって、分析や分離個体化に成功したわけでもありません。抑うつ段階は怒りに近いということはDSM-5における子どもの状態の解釈からも可能です。怒りや抑うつ段階の徹底操作です。

分析の中ではこうした転移感情が出てきます。境界例は転移を徹底操作することによって分離個体化が可能になります。自己が機能するようになるとマスターソンは述べていますが、それは抑圧された自己の現出なのでしょうか?境界例を扱っていて失敗するのは元々自己のない症例と思います。

自己は強化されていくものでしょうか?それとも分析者によって植え付けられていくものでしょうか?

ウィニコットについてのマスターソンの解釈です。偽自己の患者は社会的に適応することが可能です。偽の自己と一見適応しているかのような知性化に成功します。しかし偽自己は成功すればするほど自分の偽りに気づくことになります。そうすると分析はその知性化のためにうまくいかないでしょう。

これがウィニコットの症例をマスターソンが分析したひとつの例です。偽自己を果てしなく分析しても成功することはありません。ウィニコットはフロイトに回帰します。本能によって突き動かされるものが真の自己です。外界との接触、恐らく自我は偽の自己に当たるとウィニコットは言います。

マスターソンのウィニコット批判は、真の自己を含んでいます。本能とともに自我の個体分離化の中で内在化される部分にも真の自己は含まれているのです。そこには本能も含まれているのですけれども。

真の自己と偽自己はウィニコットの対象関係論の中核をなしているように思えます。真の自己は自発的で成功した概念です。ウィニコットは真の自我に関してかなり高いレベルを求めている。分離個体化です。創造的、自発性に富み現実感覚を持ち合わせています。

真の自己はそこまでの高みを必要としていないとマスターソンは解釈しています。真の自己を隠す防衛的な機能が偽自己だとマスターソンはウィニコットに論駁していて、真の自己は偽自己によって守られています。むしろ真の自己は全く機能しないどころか存在すらしていません。報酬型部分単位RORUとの同盟でしょう。

ウィニコットが言うほどよい母親good enough motherは幼児の万能感に呼応しているのです。幼児の万能感を手助けしています。マスターソンの理解は一般のそれとは異なっているでしょう。万能感があれば幼児の自我は強くなります。分離個体化のためには十分な愛情があれば「真の自己」は活動を始めるのです。

ほどよい母親は賞賛を惜しみなく与えるというのがマスターソンによるウィニコットの理解です。ほどよくない母親not Google enough motherは幼児にcomplimentを十分に与えません。偽自己を与えることしかできないのです。これは臨床場面でごく普通にいるクライエントさんではないでしょうか。

心理職はこのマスターソンの理解のようにとかく幼児を甘やかす母親の存在の欠落を感じていることは多いと思います。幼児に限りない賞賛を与え続けていたら幼児の自立は促進されるのです。見捨てたままでは成長ができません。クライエントさんは限りない欠乏感を持っているのが境界例です。

※ 対象関係論の世界は海を泳ぐように広いです。まだまだ書き切っているとは思えません。

冒頭に記した松木邦裕先生の「対象関係論を学ぶ」岩崎学術出版社のほか、マスターソンの「自己愛と境界例」星和書店を参考にして書いてみました。

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