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photo&lyric by sora (@Skylit_Blue)
朝から虹を見つけた。ただそれだけのことで心の隅から隅まで爽やかな風がそよいだ。


◯ ジャック・ラカンへの挽歌

1.序

ついこの間からラカンばかり書いています。ラカンは臨床心理学を学び始めたばかりの僕にとっては言語という営みをカウンセリングの中で行う最大の敵でもあり、苦しいながらも理解しなければならない最大の味方になるとも思っていました。それをきちんと整理し尽くして僕は次のステップに進みたいと思っています。

この強敵を消化し尽くしていかなければならないというのは臨床の知を理解するという義務感からなのでしょうか。精神分析初期には決して扱ってはならなかった精神病圏を自由闊達に飛び回るラカンやビオンから遡るときっと境界例
にも行き着くのだと信じています。

そしてラカンはただ単に衒学的な哲学ではなく今正に目の前にいるクライエントさんのための実践的な臨床の知を提示しているとも思うのです。

2.本文

ラカンについて述べることが衒学的で臨床の知とは関係がないものだとは思わない。言語を使う精神分析学について考えることは俺たちが臨床家としての日常的な営みをすることと深く関係している。鏡像段階の獲得は発達の上で不可欠なものだし、超自我、父の名は人間理解に通じる。

ワロンの自我-他者論は他者の識別は幼児にとっては困難なことを示している。いわゆる「アハ」体験は同一の機制が働いていると考えることができる。

ラカンはそのような一般心理学的見地を演繹しつつフロイト的な視点から鏡像段階理論を展開している。

鏡像段階は、幼児が自己の鏡像を自己の像と認知するに至る生後18カ月以降の年齢段階を示すものとして定義される。(ゲゼルも参照のこと)

鏡像段階以前には幼児が自己の姿を統一性を以って認識できない前鏡像段階があり、それは外界の認知可能な6カ月目から始まる。鏡像段階を獲得するために主体は自己を疎外する同一性を認識しなければならない。

何故ならば、幼児にとって自他未分離な状態は心地よい状態で、鏡像段階を獲得することによって主体の経験する不快さはあるひとつ心像イマーゴを伴い、一生を通じて残るものになるからである。

内界-環界(外界)という概念によって説明することが可能である。鏡像を獲得する事自体不快感を伴う外界への接触の始まりと言い換えられる。前鏡像段階、イド対鏡像段階、非イド的なものという図式が成立する。

それはまた、夢の例示によって説明がなされている。第一にはまず、寸断された身体のイメージである。

分析の過程が進んでいくにつれてしばしば現れる身体のバラバラの象は前鏡像段階への退行である。

また「私の形成」(エクリ)である鏡像段階とイドとの対立は、塹壕で固めた野営地2つの中でそれぞれが身をもがく(本人の身体が分化する)夢に象徴されている。

前述シュレーバー症例では患者が人前で自慰に耽ることが報告されていたが、フロイトによればそれはまた口唇期に見られること自体が自己愛的満足として診断されていた。

エメの症例にはそこまでの退行は見られなかった。ただしシュレーバー症例を参照することにより、あるひとつの契機として働いていたと考えることは可能だろう。自己愛は対象愛に移行する過程で中間の様相として自己愛の現象を発見できる。

正常なリビドーの発達はそのように進んでいく。固着Fixierungが起こると、あるいは退行によって妨げられることにことによって内界は快であり、外界は不快である、という図式-前鏡像段階の状態に主体は閉じ込められることになると言えるだろう。

またしかし、この鏡像段階の獲得こそが「パラノイア性の自己疎外」の準備段階であり「孤立化過程」でもあると見られている。(エクリ)

塹壕の夢では、その外傷的な段階は防禦的工事を施した建造物の出現によって隠喩としてそれが示されていると言えるだろう。

ラカンがそれを換喩としてではなく隠喩であると綴ったのは、隠喩で書かれた文章は記号表現と記号内容の不一致がそこに見受けられるからであり、記号表現が何も意味を持たない上に、メッセージとしての表現と表現との関係が対等であるという点に集約されるだろう。

夢はまたひとつのテクストであり、そこからは「雪の肌」の表現に見受けられるような比喩の自由さが求められている。

家族の三角形の理論に言及していきたい。フロイトの「エディプスの三角形」の中ではまず、幼児にとっての最も原初的リビドーの対象は母親であると述べられている。

男根期に頂点に到達するこの時期について、ラカンは母親との双数的関係によってとらえられる「想像界」と呼びならわす。また、このような母親とだけとの関係についてではなく、父親をも含めた世界は「象徴界」と言われ、結局エディプス期は父親=象徴界=法の世界への同一視によって達成される。

そのような社会化、象徴界の過程の一時期とらえられるのだが、社会化が決して肯定的な意味を以って捉えられるのではないという事は内界-環界との対立に主体が出て行く事によって外傷を蒙るという鏡像段階の図式ともまた同様である。

すなわち「言語-法」の獲得により主体は自らを疎外していくのだと言えよう。社会化の過程の中で自我・他者を区別する必要に迫られることを追究したのはワロンも同様であり、ラカンとの類似点も多く指摘されている。

ワロンによれば、子どもは生後2〜3カ月までは周囲と一体であり、身辺の世話をしてくれる大人がいなければ自身も不在となり、2人遊びの可能になる7〜8カ月期を経て初めて「私」という言葉を正しく使うようになる。

丸山圭三郎「ソシュールを読む」岩波セミナーブックス2参照「デンシャ、デンシャ」と習い立ての単語を一生懸命呟いていては思いあぐねた様子で「ママ、デンシャって人間なの?それともお人形なの?」という3歳の女児を例示したい。

丸山は感覚=運動的知能から思考的な知能へと移行する象徴化過程を言語の意味論的な分節行為の中に示すが、ワロンの問いかけはより根源的である。

鏡像の自分は、自分から見る異なった複数よりも識別の分節化はより難しく、それが可能となるのは意識にらおいて自我Moiと他者l'Autreがほぼ同時に形成されるのを待たなければならないと述べられている。

その峻別はまた、「内なる他者」※前掲(身体・自我・社会/アンリ・ワロン)と呼ばれる社会的自我によって完成される、というのも第2の自我である内なる他者を通してまた他の個人「他者」に連絡を取っていくからである。

結局「内なる他者」とは現実には不在の自分の鏡像を想定した他者であり、また小児にとっては遊びの中の仲間意識を通して形成されていくものであるのだが、エディプス的な母親との双数的関係から小児を疎外して行く父親こそは大文字の他者Grand Autreである。

疎外され続けける主体はラカンによって、そもそもの初めにおいて空虚であり、何も持たないものとして定義される。フロイトによる、自己愛から自体愛を経て対象愛に至るまでの対象を持たない段階はphallus=空虚=penisである。
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「自分の身体で自分自ら満足している状態」(ナルシシズム入門)は口唇期に見られるおしゃぶりを代表とする状態であり、Sが欲望の対象を持つにはMの登場を待たなければならない。しかしその欲望はまたS=主体−M母親だけの単独の関係のみで成立するわけではない。

S→MはP父→S主体の矢印を以って初めて理解されうる。P父→M母の欲望の流れというメッセージをSが与えられる事によって、初めてP→Sのコミュニケーションが成立し、主体は母親への欲望を持つに至る。

そしてこの→(矢印)こそは記号表現シニファンである。すなわち、主体P→MとP→Sという2つのシニファンを受け取り、S→Mという欲望の流れを完成させる。

主体とは他者からの対話である。エクリ(他者)である父親の欲望を以って主体は欲望を持つに至るのだと言うことができる。

また、この場合にはPは現実の父親ではなく、父親によって象徴される父親の欲望であると理解する事ができる。従って、Pを「父−の−名」Noms-du-Pèreラカン思想の中核概念と表記する事ができる。

a'は大文字の他者l’Autreではなく小文字の他者l'autreである。そしてまた主体にとって自我の理想でもあり、現実の父親でも有るのだが、主体によって気付かれてはいない。

なぜ俺がラカンを書き続けるのかというと以前描いたラカンのシェーマ図式Lまで引っ張り出してきて、ラカンを俺の中で完全に葬り去りたいから。ラカンを書き作ることによってラカンを自らの歴史としてしてきた過去をしっかりと自分のものとしながらも訣別したいというアンビバレンツな感情。

母親と主体との関係、S→Mの欲望も主体には気付かれていない。それは象徴的symboliqueなものであり、この三者の関係を象徴界の三角形と呼ぶ。主体はこの象徴界の中では何にも拠り所のない空虚な存在だと言える。

それは先に述べた記号表現シニファンの記号内容シニフィエに対する優位という概念を使います「父親の隠喩」という運動公式によっても説明がなされている。

運動公式、というのはそれぞれの要素がまた他の要素に対して運動を要請する、という点においてその言葉が使用されるからである。
今日はここまで。ここからが少し煩瑣になる。