4AFC0489-BE6C-4369-B77A-6528D8D1BABC

photo&lyric by sora (@Skylit_Blue)
おはようTwitter

きょうも
くりかえす喜憂と共に前へ ໒꒱⋆゚


◯ フランス構造主義精神分析学者ジャック・ラカン

つらつらと精神分析ばかりtweetしているのは学生たちの興味が精神分析にあることを知っているから。過食、摂食障害、生活習慣病にすら精神分析は有益な示唆を与えてくれる。精神分析的な知見がゼロであったならばCBTは成立しなかった。Watsonは誰よりも熱心なフロイトの読者だった。

俺がつい最近境界例と対象関係論にハマったのは院生たちに聞かれて負けず嫌いなのでどんどん遡って対象関係論学者たちの本を読んでいたからだけでなく、境界例に心理職としてこれまで接してきて治すことにだけ視点が集中していたのが、境界例がなぜ成立してきたのかを改めて知り、衝撃的だったから。

もちろん境界例の治療には弁証法的行動療法が第一選択肢、それからEMDRやブレインスポッティング、ソマティックな視点を取り入れつつも必ず精神分析的知見は必要とわかっていたが弁証法的行動療法or精神分析の専門家に任せればいいと勝手に思い込んでいたが俺の住むこの狭い地域できちんとした精神療法家はほとんどいない。

マスターソンによれば母親は子どもの分離個体化に称賛を惜しみなく与えることが効果的。分離個体化に対して称賛を控えてしまうと見捨てられ感や抑うつ感情が生じる。俺はこの感覚が境界例の源流となっていると感じる。母か子どもの退行的なしがみつきに対して抑うつから自己を防衛する。

この前あたりの理解は世間で言われる「ほどよい母親」の理解とは異なる。ほどよい母親は全能ではないというのが一般的な理解。よい母親は子どもを退行させ、しがみつき行動には報酬を与える。だからこそ退行的で病的な防衛機制が成立する。子どもは抑うつ的にならない。  

その代わりに子どもが獲得するのは退行的かつ病的な防衛規制であり、回避、否認、しがみつき、行動化、分裂、投影が生じる。報酬を与える対象的対象関係の一部(恐らくRORU)として分裂した形で与えられる。分裂した対象関係単位の一部として撤去型対象単位から退行した防衛機制と結び付く。

抑うつの防衛は偽自己の基盤となっている。WORUもRORUも子どもにとって真の自己ではない。このマスターソンの記述は俺にとっては誤解でなければsplittingの萌芽のように思える。偽自己から真の自己を発生させるためには母親からの分離という課題を達成させなければならない。

真の自己を隠すため、偽自己を発達させるのではなく、母親の鏡像化によって達成させるこのプロセスはラカンの言う鏡像段階とは明らかに違うように俺は思う。自らの存在をそれと認識する鏡像段階理論と違い、より発達の初期に起こるものだからである。

マスターソンの対象関係理論に関する理解は、かならず幼児が病的な発達段階を辿ることを想定している。これは対し関係理論の中核をなしている概念。見捨てられ抑うつから真の自己は発生する。そうすると偽自己も発達するという矛盾を常に孕んでいると俺は思う。

したがって偽自己は発達、病的防衛機構を発達させる。このマスターソンの理解が境界例概念の源になっているように思える。マスターソンが挙げるのはウィニコットの偽自己の概念。ウィニコットはかなり極端な例を挙げている。

マスターソンによれば、自発性がなく服従や模倣が中心的活動、想像力も象徴機能も用いない偽自己の例を挙げている。ピアジェの言う象徴的思考期はちょうど2〜4歳となっているのは偶然かもしれない。ウィニコットは「かのような」as if personalityが偽自己だと理解する。

新宮一成先生はクラインとラカンを連続性のあるものとして見ているのだけれどもそれは間違いではないと思う。ビオンが統合失調症を診ていたようにラカンはパラノイア症例「エメ」で先進的な試みを行っていた。当日のフランスではパラノイアの定義が曖昧だった。1932年。

当時のフランスでは気質的要因として妄想がパラノイアには発生していると考えられていた。ちなみにこの辺りは全部俺の勝手な解釈だ。統合失調症の概念も不分明。ラカンはヤスパースの「了解」概念とフロイトの超自我概念をパラノイア理解に使おうとするアクロバティックな試みをしていた。 

ラカンはエメの症例を通じ、パラノイアは心因によって起こると解釈した。フロイトの「否認」はラカン解釈の鍵になる。そのdenial概念は後にソシュールを通じ言語学にも融合する。ラカンほど家族関係に着目した分析家もいなかったという理解もできる。

エメの症例は1950年代にも引き継がれていく。エメは女優Z夫人に近づいていくがZ夫人は多くのファンの1人だろうと手馴れて断る。ところがエメはナイフを出してZ夫人を切りつける。パラノイアというのは現在ならば妄想性障害となるのだろうか。Z夫人は何年も前からエメの悪口を言い、エメを窮地に立たせていた。そうエメは信じていた。

Z夫人と作家P.Bとのスキャンダル。P.Bもまたエメの噂を流していた。Z夫人は手の怪我で済んだ。エメはサンラザール刑務所「誇大妄想と恋愛妄想的気質を伴い、解釈に基づく系統的迫害妄想に罹患」という診断名、俺はこの診断名はむしろドイツ的などこまでも長い連鎖のように感じた。

ラカンのエメに関する論文は1年半に及ぶエメとの対話によって成り立っている。エメはドルドーニュの貧しい農家で生まれ育った。17歳時妄想エピソード、18歳で鉄道会社に首席採用。姉夫婦の住む都会へ移住、プラトニックな恋愛をした。 

エメの同僚、C嬢は没落貴族の末裔にしてエメの親友。エメが23歳まで親交を結ぶ。C嬢はエメに権威的に常に振る舞っていた。エメは結婚をしてC嬢の頸城を逃れる。エメは結婚には不向きだろうと周囲から見られていた。エメは多才、芸術、文化、大学進学にも興味を示すが夫は無関心。
 
俺はエメの症例を語ることによって俺自身も言説を語っている。再び未亡人になった姉を招き入れて同居。姉がことごとくエメの家事に批判をする。ラカンがエメの病を心因と見たのはこの辺りにあったのだろうか。妊娠でエメが不安定になったのはエメ28歳時。

この時にエメは多分発症していた。同僚からのいわれのない悪口、新聞のあてこすり。奔逸した行動。2回目の30歳妊娠時には子が生されて溺愛したエメは車がそばを通りかかるだけでトラブル。フランスから渡米するための書類偽造。作家になり子を大使にするという誇大妄想。

解釈妄想病の診断の下6カ月入院。妄想は一部消失、パリの職場へ単身もどる。バカロレア(大学入試)試験には3回不合格、単身のエメはどんどん家族と疎遠に。息子を取り戻す努力虚しくここでZ夫人やP.Bへの妄想に取り憑かれる。膨大な量の手記を出版社に送り不採用。出版社員を殴り付ける。

ここまでが長い長い前置き。20日間の拘留でエメは罪の意識に苛まされる。彼女は罰せられなければならなかったと被罰妄想、迫害妄想に陥る。リビドーは罰の形で供給された。ラカンはフロイトの性欲理論を持ち出し、エメの性的エネルギーの備給が行われたことをシュレーバー症例と対比する。 

シュレーバーは法曹界で高い地位を占めた。シュレーバーはおそらく性的同一性に当時のウィーンで悩みながら救済妄想を持つ。シュレーバーは同性を愛することを否認する。「私は彼を愛さない」認めたくない感情、例えば「確かに母を夢の中で見なかった」denial否認機制。行き着く「誰も愛さない」

私しか愛さないという自家撞着になっていく。対象リビドーは自我リビドーに転換。

フロイトのナルシシズム入門の引用「自我リビドーと対象リビドーの間には一つの対立があると見ている。一方が余計に使われれば他方がそれだけ減るのである」

エメのC嬢に対する恋着は「私は彼女を愛する」という否定denial 機制によって「私は彼女を憎む」に転化される。その理由は「彼女が私を追いかけるから」という迫害、追跡妄想。エメの抑圧された同性愛リビドーはシュレーバーと相通じる。被恋妄想として出現することもある。

「私は彼女を愛する」はエメによって否定機制denialで「私は彼女を憎む」に転化される。その理由は「彼女が私を追いかけるから」迫害妄想、追跡妄想は抑圧された同性愛リビドー。シュレーバー症例と同様。行き場のない欲望。迫害、追跡妄想は被恋妄想となる。

19世期ウィーンでも1932年のフランスでも公に同性愛は認められていなかったと思う。抑圧されていた。「私(男)は彼ではなく彼女を愛している」という対象者の性を転換させる。迫害妄想と同様、主動作主はあくまでも相手側。パラノイア性精神病は単独で出現することは珍しい。迫害、追跡妄想。

多くのパラノイア性精神病がそうであるように病変は単独で現れることはなく、迫害妄想、追跡妄想、そしてエメの「彼らは恋人ではありませんがあたかもそのように振る舞います」俺はこのエメの発言を転換及び否認の防衛機制と考える。パラノイアは自罰的だ。

エメとラカンの会話を抜き出す。
「何故あなたは子どもが脅かされると感じたのか」
「私を罰するためです」
「けれども何故?」
「私が自分の使命を果たさなかったからです」そして次の瞬間「私の敵が私の使命に脅かされると感じたからです」と述べるエメ。

上記エメの2つの発言は明らかに矛盾している。迫害妄想の理由付け。だからエメは罰せられると感じたのだろう。現代精神医学では妄想性障害と見做されるのだろうか?DSM-5のディメンションシステムに分類できないような了解可能で不可能なエメの発言。ラカンは「文法的なやり方による分析」を試みる。

罰せられると感じたエメは自罰性パラノイアと定義される。倫理観が迫害妄想と一致する。「文法的やり方による分析」はどのようにして「文法的」と感じられるのか?俺はこの言説をラカンの弁証法だと思う。denialは動詞の逆転。私は彼を愛する→私は彼を憎む

主語同士も干渉し合う。「彼は私を憎んでいる」(追跡妄想)

ここからがラカンらしくなる。「彼が愛しているのは彼女だ」(それは私を愛しているのは彼女だからだ)(被恋妄想)いずれの場合にはにもソシュールの「意味するもの」(=記号表現シニファン)と意味されるもの(=記号内容シニフィエ)の二項対立に倣らう。

知覚するもの⇔されるものの対応が想定されている。知覚するもの(=主体)こそは無意識であり、知覚されるものは容易に変ずることのない現実リアリテ。知覚するもの、≒記号表現=意味するものという事実の中に主体=空虚ファルスという図式が見てとれる。

主体=ファルスはラカンの思想の中に一貫して立ち現れている。そこにソシュールが礎となっている。言語学的観点から見た精神分析理論にはソシュールを抜いて語ることはできない。

ソシュール以前の言語学は「通時的」歴史的な観点からのみ語られていた。「共時的」概念はソシュールによってもたらされた。ソシュールにとってはある国で語られていたA言語、また別の国で語られていたB言語も全く同じ地平に並べられる。

言語間では差異のみが問題であり、その差異体系を明確にするために言語全体をラングとパロールに大別する。ラングは言語の語られる場所に特有の社会的な言語的背景や慣習を含むもの。パロールは個々の発話者が頭の中で言語以前の概念が実際に言語となる過程を示す。

言語間では差異のみが問題であり、その差異体系を明確にするために言語全体をラングとパロールに大別する。ラングは言語の語られる場所に特有の社会的な言語的背景や慣習を含むもの。パロールは個々の発話者が頭の中で言語以前の概念が実際に言語となる過程を示す。

すなわち、それは単語の個々に特有の発言の結びつき方(音韻)やそれを細分化した音素。さらに突き詰めると全体として表現される意味の問題、意味論になる。意味の問題を解明することはパロールの解明となる。実在としてのメッセージこそがシニファン。その表現の以前に仮定仮定される前概念。

その前概念が記号内容=シニフィエ。結局ソシュールはパロールの問題に行き着くことはできず、その解明の手がかりとなるシニファン、シニフィエの概念を提唱するに留まってしまった。「言語学でなしうる事の大きな虚しさがわかった」とソシュールは一冊の著作も残さずこの世を去る。

ソシュールがパロールの追究について大きな糸口とした式はS/sであり、S記号表現シニファンがs記号内容シニフィエの上にあることを示している。この図式を取り入れたラディカルなフロイトの解釈こそがラカンの真髄と言える。

ラカンはフロイトの「夢判断」は言語学的な観念を導入したものであると解釈している。夢判断、そして「精神分析学入門」第2部もあるひとつのものはまた別の意味の象徴であるという図式は、パロールの分節化された、シニファン対シニフィエの構造とよく似ている。

何度も同じ記号表現がテクスト(=夢)の中に出現してくる。その国語(=ラング=夢の法則)が再構築可能になるという点で、ラカンはフロイトを優れた言語学者として評価している。(エクリⅠ)

夢の諸解釈について言語学的な観点から圧縮(Verdichtung)についてラカンは言及する。圧縮の作用は、植物の夢に示されている。潜在内容である夢思想Traumgededankenが顕在内容であるTrauminhaltに凝縮されていくというプロセス。

この圧縮の作用についてラカンは換喩métonymicと隠喩métaphoreの概念を用いて説明を行っている。換喩は船のことを示すのに「30枚の帆」と述べる比喩の方法。あるひとつの帆船のことを示しており、小舟や他の船のことを示すのではない。
(夢判断S.Freud.p363夢の作業「植物学研究の夢」)

明確な船の比喩は対象を特定する。隠喩は喩えれば「雪の肌」「林檎の頬」換喩には科学論文に示されるようなシニファンとシニフィエの厳密な一対一対応が要求される。つまりひとつの表現に対してそれが指し示す内容はあくまでひとつでなければならない。

隠喩の場合には、必ずしもひとつのシニフィエに対してシニファンが孫さんする必要はない。この比喩の方法に代表されるのは例えば詩。読み手は必ずしもシニファンとシニフィエの厳密な対応を要求されない自由な裁量を与えられている。

フロイトの述べる夢内容は多くの夢思想が圧縮したものとして示されている。隠喩的存在として存在として圧縮定義されうる。樹/🌴
これはラカンが言うように誤解を招きやすい図式でもある。ソシュールによるS/sの図式。このふたつはありがちな誤解である。

「樹」が実際の樹を示しているとは限らない。tree、Baum、arbre対応も可能。トイレはその図式がよく現れている。男性/🚪女性/🚪
S記号表現シニファン/s記号内容シニフィエ、このソシュールの原型はラカンによって打ち壊されていく。

ラカンにとってはシニファンはシニフィエに対して徹底的な優位を占めていた。夢の顕在内容(夢内容)であるシニフィエに対し、シニファンである夢の潜在内容(夢思想)は広大な広がりを持ち。その象徴性も豊かである。

例えば強迫神経症に見られるような反復強迫はまた、シニファンの無限の洪水であり、それは象徴の連鎖(エクリⅠ)であるとも言われていた。夢の置き換えについて見てみる。「夢に現れる象徴の圧倒的多数は性的な象徴です。」

「表現される内容の数は少ないのに、それの象徴は並々ならず多い」(精神分析入門)例えばシニフィエである男性性器を象徴するシニファンとしてしてはざっとあげられているだけで、ステッキ、傘、棒、木、メス、吊りランプ、飛行船等があるだろう。

夢の中の置き換えのシステムはまた、次の様に解釈される。大文字のSはシニファン(記号表現)を示す。(※精神分析学入門は第二部、夢-第10講、夢の象徴的表現p203)

Ⅰ S |s
Ⅱ S |ss |
Ⅲ S |s |S s |S
大文字のSはシニファン記号表現を示し、小文字のsはシニフィエを示す。Ⅰにおいては単純なdenotation(外示)、ごく普通の言語機能を持つ場合である。※

ラカンはこの概念、denotation、connotationの定義を著作、セミネールの中で1度も行ったことはないが、明らかにその体系を意識したと思われる発言は随所に見受けられる。

この概念は言語学の領域を超えて記号学の分野で誕生した。connotationは「メタ」と同義であるがラカンは「メタ言語はどこにもない」と明言する。初めてこの概念を広めたのは記号学者ロラン・バルトである。

シニファンとして定置され、その上にまたまた新しいシニフィエsが出現し、さらにその全体をひとつのシニフィエとするシニファンSが出現している。

この構造はdenotationに対しconnotation(共示)として示される。シニファン、シニフィエ結合であるdenotationが、より高次のシニファンとして機能する状態である。

「精神分析学入門」では「ステッキ」及び「傘」の群は形状的に類似しているという点によりペニス象徴するシニファンであるとして布置された。また、第2の群中の「メス」は体内に侵入して傷付けるという点で、吊りランプは伸縮するという点で、飛行船は重力に反して直立するという点でペニスを象徴する。すなわち、個々のシニフィエに対し多くのシニファンが対応させられるというラカンの特有の隠喩の概念である。

そこには結局Ⅲに見られるように、無限のシニファンの連鎖により他のシニファンの連鎖によって他のシニファンがそこで欠落したり省略されるということを示している。

以上のような言語学的観点を踏まえた上で、ラカンの理論の中枢を成すとある意味で言えるであろう「鏡像段階理論」「主体」と「他者」の概念について考察を深めていきたい。

鏡像段階理論/一般心理学でも認知の発達に伴う「鏡像」を自己の姿として認識す過程がフロイトの自我理論によって大きく補強された。

幼児が自己の鏡像を自己の像と認知するという、極めて明証性を以って定義することが鏡像段階である。発達心理学者らがこれについて多く言及している。

ワロン(アンリ・ワロン・「身体・自我・社会」ミネルヴァ書房)は5歳の女児が自分の姿を姉妹の像と間違えた例から自我の像の識別は異なった複数の他者の識別よりも困難であることを述べている。
(続くかどうかはわからない)