ひなたあきらのおけまる公認心理師たん

新制度公認心理師の検証をしばらく続け、この制度がよりよいものになるための問題提起を行いつつ、カウンセリングの在り方について考え、最新の情報提供を行っていきます。ほか心理学全般についての考察も進めていきます ブログ運営者:ひなたあきら メールアドレスhimata0630★gmail.com(★を@に変えてください。)

タグ:ジャック・ラカン

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photo&lyric by sora (@Skylit_Blue)
「誰かに言われたから」などの外発的動機ではなく「自分がそうしたいから」という内発的動機が大切なのは、「最終的に自分が決めた」という想いによって責任の所在が自分になるからだと思う。そうすれば、言い訳も敗因も後悔も、全部自分の中で完結する。自分の人生に責任をもてる生き方をしたいね。


◯ ジャック・ラカンの冒険

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主体がまず第1にファルス(空虚)なものとして表現されることは先の図式lで述べた通りだがこの式においてもそのようにみなされる。

主体そのものは式の中のどこにもない。⑵の主題にとってシニフィエは想像界ル・イマジネールの双数的関係のパートナーである母親の持つ欲望の出現を待ってS/sのシニフィエとなる。

ラカン・父親の隠喩

主体がまず第1にファルス(空虚)なものとして表現されることは先の図式Lで述べたとおりだが、この式においてはそのようにみなされる。主体そのものは上式中のどこにもない。⑵な主体にとってのシニフィエは想像界ル・イマジネールの双数的関係のパートナーである母親の出現を待つ。

ラカンによれば、主体は子どもの位置をこの式の中に占めているのだが、空虚なのである。また母親の欲望は母親であるがゆえに父親の名を欲する。それは現実の父親ではない象徴としての父親であり、故に父-の-名と表現される。

したがって本来S/sの図式に収まらなければならないはずの母親の欲望は⑴式の中ではシニフィエの場に移動する。母親の欲望が父親を優位に付置する事を求めた結果である。そして主体の空虚性が母親をシニフィエの位置に置く事になったのである。

しかしまた、逆に主体が空虚であるからこの母親の欲望が導いていたとも言える。母親の欲望が父親の名を欲するので⑶式のように父親の名を中心として主体は収束していく。母親の求める父親の名は名前だけの象徴的なものであり、そこに⑶における空虚なシニフィエとしてのファルスが出現する。

Aは大文字の他者である。主体は母親の欲望に導かれて空虚なシニフィエAの他者としてのシニファン、そして象徴でしかない「名」としての父親の世界にたどり着く事になる。

ラカンは無意識が表面に現れて意識化された形が精神病であるという見解には大きく異を唱えている。しかし無意識が語るという見解には俺も賛成する。

無意識が言語langageであるというのは、フロイトが「外国語を翻訳するように」(ラカン「精神病」岩波書店ジャック・アラン・ミレール編)それを一度ばらばらにして再構成するように読み直すからだという。

あるParanoia性の妄想を持つ妄想を持つ女性患者が、隣室の男性に「雌豚め」と言われたその日の分析で彼女は「私豚肉屋から来たの」という言葉をまず口にした。

妄想の思考-言語体系の中ではしばしば主体と客体の転倒が行われる。

フロイトが優れた妄想の解読者であったとすれば、妄想を持つ患者は正に自分自身がそれを解読せずに話す者、すなわちまるで自分の知らない外国語で話している者だという。

また、大文字の他者ではなく、小文字の他者の言葉で語る者だともいう。なぜ他者性が二重に文節化されなければならないのか。

俺はラカンを書き綴ることによって、俺が臨床を始めた言葉、paroleの存在性について確認作業を行い続ける。この作業が終わった時にラカンを葬り去り、初めて俺は次の段階に進めるだろう。そこに待つのはまたラカンの鏡像段階かもしれないという恐怖に怯えながら。

Schema Lについて幼児は前エディプス期とも呼べる母親との双数的関係の中で常に母親と結合する関係を欲望し、想像界の世界に身を置く。しかし「父の名」はそれを許さず彼に言語と禁止を与えた。

この辺りの記述はフロイトに回帰しながら対象関係論を取り入れているラカンの姿勢が読み取れるが、ラカンは自らを対象関係論者とは認めていない。

父の名は名目上のものでありはすれ、しかし絶対的なものであった。ラカンは良く使われる日常言語を用い、大文字の他者を例証する。

「君は僕の妻だ」
「あなたは私の師」
個人内容言語paroleの中で上記2文にとって、その源泉となって権威を与えているものは一体何なのか、それは主体にとっては未知なるものである。

それは主体にとってその場所からの働きかけはあるけれども見えてくるものではない象徴界の減力、他者大文字のAである。

「私、豚肉屋から来たの」と語る女性にとってはこの大文字の他者Aは存在せず、隣室の男性が語った言葉がそのまま小文字の他者として主体Sに発語を行わせている。

シュレーバーもまた、全ての人間に対し(駄目になった奴)、と呼びかける。

彼にとっても大文字の他者Aは喪失されたものとなり、距離感を失った小文字のa'のparoleで語っている。

「君は僕の妻だ」というparoleは「僕は君の夫だ」というメッセージであると同時に、関係性を大文字の他者Aによって再認する行為であるという。

象徴界から想像界への退行がParanoia性の妄想であるならば、幼児期の鏡像段階によって示された18か月期はまた、想像界から象徴界への運命的な移行の時期であるとも言えるだろう。

象徴の出現という現象についてもまたフロイトは興味深い考察を行っている(「快楽原則を超えて」S.Freud,日本教文社)。

ちょうど生後18カ月になる幼児について、手間がかからないけれどもひとつの困った癖を持っていて、それは部屋の中のこまごまとした物を手当たり次第投げつけるという癖だという。

この子どもはそんな風に物を投げつける時は決まって《o-o-o-o》と叫び声と満足の顔をする。

フロイトの観察によれば、この幼児は糸巻きを投げつけてそれが見えなくなると例の《o-o-o-o》の声を発し、その糸がたぐり寄せられて出現すると嬉しそうに《Da》(いた・あった)と声を上げたという。

《oーoーo-o》はこの時「いない」を象徴する。

また、ある時には母親が長時間留守にしていて戻ったとき子どもが《o-o-o-o》と言いながら鏡に向かって自分の姿が見えなくなるまでしゃがみ込んでいたという。

いわばこの「いないいない遊び」はピアジェなら感覚運動期における保存性の出現、または前運動期への移行とも定義付けられるのであろうが、ラカン流の解釈を行うならば、言語の獲得によって象徴される、きわめて重要な主体の転換期である。

この2つの遊びでは、母親が自分の目の前からある時には消え、ある時には現れるという厳然とした事実の前に主体としての幼児は常に強烈に母親を欲望する心性を1人きりで、《いる-いない》の別の対象に委託し、糸巻きや自分自身によってそれを代理させていると言えはしまいか。

《o-o-o-o》や《Da》という単純なものではあるけれどもこの時、用事は確実に言語の獲得に成功し、掟であり法である他者A、想像界から主体を疎外する象徴を身をもって体験している。

鏡像の認識の成立が、単にピアジェ的な認識論にとどまることなく、言語の獲得も象徴している。自体愛における主体の「寸断された身体」の幻想L’Imaginaireもまた、ただばらばらの身体部分からの移行ということよりも、主体が想像界においては寸断された欲望の総合体であることを示している。

シュレーバーはある時に、自分の死が新聞で報じられたという啓示を受け、死んだシュレーバーの方が生きたシュレーバーよりも才能があり、その血管才能あるシュレーバーよりも才能があり、才能あるシュレーバーと共に同性愛対象のフレシジッヒ博士も想像界の中で死ぬ。

ここまで書いていて思ったのは俺のあらん限りの知識と解釈をもってして、自己流のラカンや精神分析そのものへの解釈をしているということ。それが正しいかどうかなのかはまさに俺自身の自由連想的な解釈になっている。

続き。「上のフレシジッヒ」「光り輝くフレシジッヒ」40から60の小さな魂に分断される「下のフレシジッヒ」を見ることになり「手記」はフレシジッヒが分裂したまま延々と続けられることになる。

確固たる同性愛の妄想対象であるフレシジッヒはシュレーバーにとっては寸断された欲望。ラカンはparoleを3つの領域に分割する。

第1にシニフィエとの隠喩的、すなわち多層的に対応する関係を持つシニファンとしての象徴界

シニフィカシオン意味作用である一対一対応で示すことのできる想像界

そしてソシュールが言語学にその概念を登場させたようにラカンもまた象徴界、想像界の2つの次元にまたがる通時性シンタクスとしての現実界を登場させる。

現実界はまた厳密に現実的であるという意味でその書かれた言説discoursに対応する。discoursの文法の中では書くものは書かれたものと正確に一対一の対応をする。主体はこの3つのparoleの領域を使用社会的言語Langを発することができる。

シニファンを表象的道具として、シニフィカシオンを前概念として、そしてそれらを現実界へと受け入れられるようにする。

他者Aは「君は僕の妻だ」という未知なる場所から主体に現実を語る。精神病的現象とは、ある異様なシニフィカシオンが現実の中に出現することだという。

シニフィカシオンは象徴化のシステム、すなわち言語体系にはこの精神病理的な構造の上ではそれを通過せずに働くのであると同時に、その出現も突然である。「精神病は発病前史を持っていないように思われます」(精神病)

(精神病であるかどうかはその患者の言語能力langageが保たれているかどうかを見ればわかります。)※精神病

実際シュレーバーにとっては通常の言語体系Langから外れている「基本語」の創造なしには彼の「手記」を語り得なかったのだし、突然出現した「子を生す」というシニフィカシオンは主体にとっては何ら象徴としての必然性を持つものではなかった。

シュレーバー症例では結局、「基本語」によって細いシニファンのイトが不可解な創造的世界であるシニフィカシオンを「手記」というdiscoursにまで高められたという事はこの手記によって彼が法曹界への復帰を果たしたのだという事実からも明らかである。

「基本語」によって語られた神への愛の「否定」による救済妄想に至る弁証法は以下のように要約されうるだろう。「私は彼を愛する」→「私は彼を愛さない」→「私は彼しか愛さない」

同じく「否定」の弁証法によってラカンに解読されたエメの症例てまはlangageの著しい破壊は起こっていなかったが同一性の基盤が脅かされていたという事は彼女が激しく女流作家や女優達を憎み、ある時は息子に危害を加える敵を妄想しつつ、またある時には息子を置き去りにして独居していた。

エメは混乱していた。結婚前のN…のC嬢との親交について、シュレーバーが満たされぬフレシジッヒ博士への同性愛的感情から様々な神や魂の妄想に陥っていったように、エメについても、もし女優の代わりにN…のC嬢が現れていたならば犠牲者となっていただろうとラカンの報告はそう言明している。

28歳と21歳の2人の姉妹によって行われた彼女達が使用人として奉公していた家の主人を残虐なやり方で殺したある症例(ラカン「パラノイア性犯罪の動機」現代思想特集号)についても言及されている。

28歳と21歳の姉妹が奉公していた主人を惨殺した症例。「別の人生では私は妹の夫になるはずだったと確信しています」という姉の証言があり、ある時は母子間の想像関係として描きます出された双数性、パラノイア性精神病についての同性愛的な想像的結合が満たされた。

ゆえにまた満たされなかったゆえに現実界への攻撃としてしばしば犯罪が行われることがわかる。

想像界への教育がその存在そのものにより攻撃性を孕まざるを得ないことはまた一見、「死の本能」にも似た概念でもあり得るだろう。

「攻撃的関係が自我moiを構成する」(精神病)

そう言えば遡行して、ffさんの質問に答えた。Schema Lの中で空虚であるはずのファルスΦがどうして主体と近いのか。ラカンは主体、Φ、男根は常に空虚さを伴った偽の存在と定義づけている。

パラノイア性の精神病は同性愛的な想像が満たされても満たされなくてもそれが故に現実界への攻撃としてらしばしば犯罪が行われる。

想像界への脅威がその存在そのものにより攻撃性を孕まざるを得ない事は一見、「死の本能」とも似た概念にもなり得るだろう。「攻撃的関係は自我moiを構成する」(精神病:前掲書)

俺が語っているのは約30年前のラカン研究の歴史。ラカン研究家の新宮一成先生はとうに最終講義を終えている。無意識について触れている新宮先生の「夢と構造」その中に出てくるイザナミ症候群は中絶によって負った傷を治療する経過。在不在交代の原則。

開業ラカン派元精神科医小笠原晋也。彼が婚約者を殺害して懲役9年の刑を受けたことは正に双数的関係。彼の主催する東京ラカン塾は臨床心理士、公認心理師への批判を行っている。正に攻撃的関係による自我moiの形成。

さて、自我はイドにとっての主人であり無意識を主体と見るならば自我はまたあの大文字の他者Aである。そしていつでも自我が人間の主導権を握ることができるようになっている。

想像と象徴は現実の中での戦いを余儀なくされることになる。

しばしば行われるこうしたパラノイア性の犯罪には自己愛的な感情が伴う事が多いのは最前述べたとおりであり、また自己愛的な固着はある時は近親に対し、またある時には自分と同一の性を持つ者へとその対象を移しやすいことがラカンによって観察されている。

パラノイア。ナルシシティックな感情が攻撃行動に繋がり易いのはまた「同性愛」を経た否定の弁証法とラカンは言う。俺は関係ないと思っている。

またラカンのdiscours。「私は彼を愛する」は否定の機能により「私は彼を憎む」に転換される。エメにとっては無二の親友であったN…のC嬢は後に憎まれるようになった。

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きょうも
くりかえす喜憂と共に前へ ໒꒱⋆゚


◯ フランス構造主義精神分析学者ジャック・ラカン

つらつらと精神分析ばかりtweetしているのは学生たちの興味が精神分析にあることを知っているから。過食、摂食障害、生活習慣病にすら精神分析は有益な示唆を与えてくれる。精神分析的な知見がゼロであったならばCBTは成立しなかった。Watsonは誰よりも熱心なフロイトの読者だった。

俺がつい最近境界例と対象関係論にハマったのは院生たちに聞かれて負けず嫌いなのでどんどん遡って対象関係論学者たちの本を読んでいたからだけでなく、境界例に心理職としてこれまで接してきて治すことにだけ視点が集中していたのが、境界例がなぜ成立してきたのかを改めて知り、衝撃的だったから。

もちろん境界例の治療には弁証法的行動療法が第一選択肢、それからEMDRやブレインスポッティング、ソマティックな視点を取り入れつつも必ず精神分析的知見は必要とわかっていたが弁証法的行動療法or精神分析の専門家に任せればいいと勝手に思い込んでいたが俺の住むこの狭い地域できちんとした精神療法家はほとんどいない。

マスターソンによれば母親は子どもの分離個体化に称賛を惜しみなく与えることが効果的。分離個体化に対して称賛を控えてしまうと見捨てられ感や抑うつ感情が生じる。俺はこの感覚が境界例の源流となっていると感じる。母か子どもの退行的なしがみつきに対して抑うつから自己を防衛する。

この前あたりの理解は世間で言われる「ほどよい母親」の理解とは異なる。ほどよい母親は全能ではないというのが一般的な理解。よい母親は子どもを退行させ、しがみつき行動には報酬を与える。だからこそ退行的で病的な防衛機制が成立する。子どもは抑うつ的にならない。  

その代わりに子どもが獲得するのは退行的かつ病的な防衛規制であり、回避、否認、しがみつき、行動化、分裂、投影が生じる。報酬を与える対象的対象関係の一部(恐らくRORU)として分裂した形で与えられる。分裂した対象関係単位の一部として撤去型対象単位から退行した防衛機制と結び付く。

抑うつの防衛は偽自己の基盤となっている。WORUもRORUも子どもにとって真の自己ではない。このマスターソンの記述は俺にとっては誤解でなければsplittingの萌芽のように思える。偽自己から真の自己を発生させるためには母親からの分離という課題を達成させなければならない。

真の自己を隠すため、偽自己を発達させるのではなく、母親の鏡像化によって達成させるこのプロセスはラカンの言う鏡像段階とは明らかに違うように俺は思う。自らの存在をそれと認識する鏡像段階理論と違い、より発達の初期に起こるものだからである。

マスターソンの対象関係理論に関する理解は、かならず幼児が病的な発達段階を辿ることを想定している。これは対し関係理論の中核をなしている概念。見捨てられ抑うつから真の自己は発生する。そうすると偽自己も発達するという矛盾を常に孕んでいると俺は思う。

したがって偽自己は発達、病的防衛機構を発達させる。このマスターソンの理解が境界例概念の源になっているように思える。マスターソンが挙げるのはウィニコットの偽自己の概念。ウィニコットはかなり極端な例を挙げている。

マスターソンによれば、自発性がなく服従や模倣が中心的活動、想像力も象徴機能も用いない偽自己の例を挙げている。ピアジェの言う象徴的思考期はちょうど2〜4歳となっているのは偶然かもしれない。ウィニコットは「かのような」as if personalityが偽自己だと理解する。

新宮一成先生はクラインとラカンを連続性のあるものとして見ているのだけれどもそれは間違いではないと思う。ビオンが統合失調症を診ていたようにラカンはパラノイア症例「エメ」で先進的な試みを行っていた。当日のフランスではパラノイアの定義が曖昧だった。1932年。

当時のフランスでは気質的要因として妄想がパラノイアには発生していると考えられていた。ちなみにこの辺りは全部俺の勝手な解釈だ。統合失調症の概念も不分明。ラカンはヤスパースの「了解」概念とフロイトの超自我概念をパラノイア理解に使おうとするアクロバティックな試みをしていた。 

ラカンはエメの症例を通じ、パラノイアは心因によって起こると解釈した。フロイトの「否認」はラカン解釈の鍵になる。そのdenial概念は後にソシュールを通じ言語学にも融合する。ラカンほど家族関係に着目した分析家もいなかったという理解もできる。

エメの症例は1950年代にも引き継がれていく。エメは女優Z夫人に近づいていくがZ夫人は多くのファンの1人だろうと手馴れて断る。ところがエメはナイフを出してZ夫人を切りつける。パラノイアというのは現在ならば妄想性障害となるのだろうか。Z夫人は何年も前からエメの悪口を言い、エメを窮地に立たせていた。そうエメは信じていた。

Z夫人と作家P.Bとのスキャンダル。P.Bもまたエメの噂を流していた。Z夫人は手の怪我で済んだ。エメはサンラザール刑務所「誇大妄想と恋愛妄想的気質を伴い、解釈に基づく系統的迫害妄想に罹患」という診断名、俺はこの診断名はむしろドイツ的などこまでも長い連鎖のように感じた。

ラカンのエメに関する論文は1年半に及ぶエメとの対話によって成り立っている。エメはドルドーニュの貧しい農家で生まれ育った。17歳時妄想エピソード、18歳で鉄道会社に首席採用。姉夫婦の住む都会へ移住、プラトニックな恋愛をした。 

エメの同僚、C嬢は没落貴族の末裔にしてエメの親友。エメが23歳まで親交を結ぶ。C嬢はエメに権威的に常に振る舞っていた。エメは結婚をしてC嬢の頸城を逃れる。エメは結婚には不向きだろうと周囲から見られていた。エメは多才、芸術、文化、大学進学にも興味を示すが夫は無関心。
 
俺はエメの症例を語ることによって俺自身も言説を語っている。再び未亡人になった姉を招き入れて同居。姉がことごとくエメの家事に批判をする。ラカンがエメの病を心因と見たのはこの辺りにあったのだろうか。妊娠でエメが不安定になったのはエメ28歳時。

この時にエメは多分発症していた。同僚からのいわれのない悪口、新聞のあてこすり。奔逸した行動。2回目の30歳妊娠時には子が生されて溺愛したエメは車がそばを通りかかるだけでトラブル。フランスから渡米するための書類偽造。作家になり子を大使にするという誇大妄想。

解釈妄想病の診断の下6カ月入院。妄想は一部消失、パリの職場へ単身もどる。バカロレア(大学入試)試験には3回不合格、単身のエメはどんどん家族と疎遠に。息子を取り戻す努力虚しくここでZ夫人やP.Bへの妄想に取り憑かれる。膨大な量の手記を出版社に送り不採用。出版社員を殴り付ける。

ここまでが長い長い前置き。20日間の拘留でエメは罪の意識に苛まされる。彼女は罰せられなければならなかったと被罰妄想、迫害妄想に陥る。リビドーは罰の形で供給された。ラカンはフロイトの性欲理論を持ち出し、エメの性的エネルギーの備給が行われたことをシュレーバー症例と対比する。 

シュレーバーは法曹界で高い地位を占めた。シュレーバーはおそらく性的同一性に当時のウィーンで悩みながら救済妄想を持つ。シュレーバーは同性を愛することを否認する。「私は彼を愛さない」認めたくない感情、例えば「確かに母を夢の中で見なかった」denial否認機制。行き着く「誰も愛さない」

私しか愛さないという自家撞着になっていく。対象リビドーは自我リビドーに転換。

フロイトのナルシシズム入門の引用「自我リビドーと対象リビドーの間には一つの対立があると見ている。一方が余計に使われれば他方がそれだけ減るのである」

エメのC嬢に対する恋着は「私は彼女を愛する」という否定denial 機制によって「私は彼女を憎む」に転化される。その理由は「彼女が私を追いかけるから」という迫害、追跡妄想。エメの抑圧された同性愛リビドーはシュレーバーと相通じる。被恋妄想として出現することもある。

「私は彼女を愛する」はエメによって否定機制denialで「私は彼女を憎む」に転化される。その理由は「彼女が私を追いかけるから」迫害妄想、追跡妄想は抑圧された同性愛リビドー。シュレーバー症例と同様。行き場のない欲望。迫害、追跡妄想は被恋妄想となる。

19世期ウィーンでも1932年のフランスでも公に同性愛は認められていなかったと思う。抑圧されていた。「私(男)は彼ではなく彼女を愛している」という対象者の性を転換させる。迫害妄想と同様、主動作主はあくまでも相手側。パラノイア性精神病は単独で出現することは珍しい。迫害、追跡妄想。

多くのパラノイア性精神病がそうであるように病変は単独で現れることはなく、迫害妄想、追跡妄想、そしてエメの「彼らは恋人ではありませんがあたかもそのように振る舞います」俺はこのエメの発言を転換及び否認の防衛機制と考える。パラノイアは自罰的だ。

エメとラカンの会話を抜き出す。
「何故あなたは子どもが脅かされると感じたのか」
「私を罰するためです」
「けれども何故?」
「私が自分の使命を果たさなかったからです」そして次の瞬間「私の敵が私の使命に脅かされると感じたからです」と述べるエメ。

上記エメの2つの発言は明らかに矛盾している。迫害妄想の理由付け。だからエメは罰せられると感じたのだろう。現代精神医学では妄想性障害と見做されるのだろうか?DSM-5のディメンションシステムに分類できないような了解可能で不可能なエメの発言。ラカンは「文法的なやり方による分析」を試みる。

罰せられると感じたエメは自罰性パラノイアと定義される。倫理観が迫害妄想と一致する。「文法的やり方による分析」はどのようにして「文法的」と感じられるのか?俺はこの言説をラカンの弁証法だと思う。denialは動詞の逆転。私は彼を愛する→私は彼を憎む

主語同士も干渉し合う。「彼は私を憎んでいる」(追跡妄想)

ここからがラカンらしくなる。「彼が愛しているのは彼女だ」(それは私を愛しているのは彼女だからだ)(被恋妄想)いずれの場合にはにもソシュールの「意味するもの」(=記号表現シニファン)と意味されるもの(=記号内容シニフィエ)の二項対立に倣らう。

知覚するもの⇔されるものの対応が想定されている。知覚するもの(=主体)こそは無意識であり、知覚されるものは容易に変ずることのない現実リアリテ。知覚するもの、≒記号表現=意味するものという事実の中に主体=空虚ファルスという図式が見てとれる。

主体=ファルスはラカンの思想の中に一貫して立ち現れている。そこにソシュールが礎となっている。言語学的観点から見た精神分析理論にはソシュールを抜いて語ることはできない。

ソシュール以前の言語学は「通時的」歴史的な観点からのみ語られていた。「共時的」概念はソシュールによってもたらされた。ソシュールにとってはある国で語られていたA言語、また別の国で語られていたB言語も全く同じ地平に並べられる。

言語間では差異のみが問題であり、その差異体系を明確にするために言語全体をラングとパロールに大別する。ラングは言語の語られる場所に特有の社会的な言語的背景や慣習を含むもの。パロールは個々の発話者が頭の中で言語以前の概念が実際に言語となる過程を示す。

言語間では差異のみが問題であり、その差異体系を明確にするために言語全体をラングとパロールに大別する。ラングは言語の語られる場所に特有の社会的な言語的背景や慣習を含むもの。パロールは個々の発話者が頭の中で言語以前の概念が実際に言語となる過程を示す。

すなわち、それは単語の個々に特有の発言の結びつき方(音韻)やそれを細分化した音素。さらに突き詰めると全体として表現される意味の問題、意味論になる。意味の問題を解明することはパロールの解明となる。実在としてのメッセージこそがシニファン。その表現の以前に仮定仮定される前概念。

その前概念が記号内容=シニフィエ。結局ソシュールはパロールの問題に行き着くことはできず、その解明の手がかりとなるシニファン、シニフィエの概念を提唱するに留まってしまった。「言語学でなしうる事の大きな虚しさがわかった」とソシュールは一冊の著作も残さずこの世を去る。

ソシュールがパロールの追究について大きな糸口とした式はS/sであり、S記号表現シニファンがs記号内容シニフィエの上にあることを示している。この図式を取り入れたラディカルなフロイトの解釈こそがラカンの真髄と言える。

ラカンはフロイトの「夢判断」は言語学的な観念を導入したものであると解釈している。夢判断、そして「精神分析学入門」第2部もあるひとつのものはまた別の意味の象徴であるという図式は、パロールの分節化された、シニファン対シニフィエの構造とよく似ている。

何度も同じ記号表現がテクスト(=夢)の中に出現してくる。その国語(=ラング=夢の法則)が再構築可能になるという点で、ラカンはフロイトを優れた言語学者として評価している。(エクリⅠ)

夢の諸解釈について言語学的な観点から圧縮(Verdichtung)についてラカンは言及する。圧縮の作用は、植物の夢に示されている。潜在内容である夢思想Traumgededankenが顕在内容であるTrauminhaltに凝縮されていくというプロセス。

この圧縮の作用についてラカンは換喩métonymicと隠喩métaphoreの概念を用いて説明を行っている。換喩は船のことを示すのに「30枚の帆」と述べる比喩の方法。あるひとつの帆船のことを示しており、小舟や他の船のことを示すのではない。
(夢判断S.Freud.p363夢の作業「植物学研究の夢」)

明確な船の比喩は対象を特定する。隠喩は喩えれば「雪の肌」「林檎の頬」換喩には科学論文に示されるようなシニファンとシニフィエの厳密な一対一対応が要求される。つまりひとつの表現に対してそれが指し示す内容はあくまでひとつでなければならない。

隠喩の場合には、必ずしもひとつのシニフィエに対してシニファンが孫さんする必要はない。この比喩の方法に代表されるのは例えば詩。読み手は必ずしもシニファンとシニフィエの厳密な対応を要求されない自由な裁量を与えられている。

フロイトの述べる夢内容は多くの夢思想が圧縮したものとして示されている。隠喩的存在として存在として圧縮定義されうる。樹/🌴
これはラカンが言うように誤解を招きやすい図式でもある。ソシュールによるS/sの図式。このふたつはありがちな誤解である。

「樹」が実際の樹を示しているとは限らない。tree、Baum、arbre対応も可能。トイレはその図式がよく現れている。男性/🚪女性/🚪
S記号表現シニファン/s記号内容シニフィエ、このソシュールの原型はラカンによって打ち壊されていく。

ラカンにとってはシニファンはシニフィエに対して徹底的な優位を占めていた。夢の顕在内容(夢内容)であるシニフィエに対し、シニファンである夢の潜在内容(夢思想)は広大な広がりを持ち。その象徴性も豊かである。

例えば強迫神経症に見られるような反復強迫はまた、シニファンの無限の洪水であり、それは象徴の連鎖(エクリⅠ)であるとも言われていた。夢の置き換えについて見てみる。「夢に現れる象徴の圧倒的多数は性的な象徴です。」

「表現される内容の数は少ないのに、それの象徴は並々ならず多い」(精神分析入門)例えばシニフィエである男性性器を象徴するシニファンとしてしてはざっとあげられているだけで、ステッキ、傘、棒、木、メス、吊りランプ、飛行船等があるだろう。

夢の中の置き換えのシステムはまた、次の様に解釈される。大文字のSはシニファン(記号表現)を示す。(※精神分析学入門は第二部、夢-第10講、夢の象徴的表現p203)

Ⅰ S |s
Ⅱ S |ss |
Ⅲ S |s |S s |S
大文字のSはシニファン記号表現を示し、小文字のsはシニフィエを示す。Ⅰにおいては単純なdenotation(外示)、ごく普通の言語機能を持つ場合である。※

ラカンはこの概念、denotation、connotationの定義を著作、セミネールの中で1度も行ったことはないが、明らかにその体系を意識したと思われる発言は随所に見受けられる。

この概念は言語学の領域を超えて記号学の分野で誕生した。connotationは「メタ」と同義であるがラカンは「メタ言語はどこにもない」と明言する。初めてこの概念を広めたのは記号学者ロラン・バルトである。

シニファンとして定置され、その上にまたまた新しいシニフィエsが出現し、さらにその全体をひとつのシニフィエとするシニファンSが出現している。

この構造はdenotationに対しconnotation(共示)として示される。シニファン、シニフィエ結合であるdenotationが、より高次のシニファンとして機能する状態である。

「精神分析学入門」では「ステッキ」及び「傘」の群は形状的に類似しているという点によりペニス象徴するシニファンであるとして布置された。また、第2の群中の「メス」は体内に侵入して傷付けるという点で、吊りランプは伸縮するという点で、飛行船は重力に反して直立するという点でペニスを象徴する。すなわち、個々のシニフィエに対し多くのシニファンが対応させられるというラカンの特有の隠喩の概念である。

そこには結局Ⅲに見られるように、無限のシニファンの連鎖により他のシニファンの連鎖によって他のシニファンがそこで欠落したり省略されるということを示している。

以上のような言語学的観点を踏まえた上で、ラカンの理論の中枢を成すとある意味で言えるであろう「鏡像段階理論」「主体」と「他者」の概念について考察を深めていきたい。

鏡像段階理論/一般心理学でも認知の発達に伴う「鏡像」を自己の姿として認識す過程がフロイトの自我理論によって大きく補強された。

幼児が自己の鏡像を自己の像と認知するという、極めて明証性を以って定義することが鏡像段階である。発達心理学者らがこれについて多く言及している。

ワロン(アンリ・ワロン・「身体・自我・社会」ミネルヴァ書房)は5歳の女児が自分の姿を姉妹の像と間違えた例から自我の像の識別は異なった複数の他者の識別よりも困難であることを述べている。
(続くかどうかはわからない)

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