ひなたあきらのおけまる公認心理師たん

新制度公認心理師の検証をしばらく続け、この制度がよりよいものになるための問題提起を行いつつ、カウンセリングの在り方について考え、最新の情報提供を行っていきます。ほか心理学全般についての考察も進めていきます ブログ運営者:ひなたあきら メールアドレスhimata0630★gmail.com(★を@に変えてください。)

カテゴリ: 精神医学

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photo&lyric by sora (@Skylit_Blue)
おはようTwitter

きょうも
くりかえす喜憂と共に前へ ໒꒱⋆゚


◯ フランス構造主義精神分析学者ジャック・ラカン

つらつらと精神分析ばかりtweetしているのは学生たちの興味が精神分析にあることを知っているから。過食、摂食障害、生活習慣病にすら精神分析は有益な示唆を与えてくれる。精神分析的な知見がゼロであったならばCBTは成立しなかった。Watsonは誰よりも熱心なフロイトの読者だった。

俺がつい最近境界例と対象関係論にハマったのは院生たちに聞かれて負けず嫌いなのでどんどん遡って対象関係論学者たちの本を読んでいたからだけでなく、境界例に心理職としてこれまで接してきて治すことにだけ視点が集中していたのが、境界例がなぜ成立してきたのかを改めて知り、衝撃的だったから。

もちろん境界例の治療には弁証法的行動療法が第一選択肢、それからEMDRやブレインスポッティング、ソマティックな視点を取り入れつつも必ず精神分析的知見は必要とわかっていたが弁証法的行動療法or精神分析の専門家に任せればいいと勝手に思い込んでいたが俺の住むこの狭い地域できちんとした精神療法家はほとんどいない。

マスターソンによれば母親は子どもの分離個体化に称賛を惜しみなく与えることが効果的。分離個体化に対して称賛を控えてしまうと見捨てられ感や抑うつ感情が生じる。俺はこの感覚が境界例の源流となっていると感じる。母か子どもの退行的なしがみつきに対して抑うつから自己を防衛する。

この前あたりの理解は世間で言われる「ほどよい母親」の理解とは異なる。ほどよい母親は全能ではないというのが一般的な理解。よい母親は子どもを退行させ、しがみつき行動には報酬を与える。だからこそ退行的で病的な防衛機制が成立する。子どもは抑うつ的にならない。  

その代わりに子どもが獲得するのは退行的かつ病的な防衛規制であり、回避、否認、しがみつき、行動化、分裂、投影が生じる。報酬を与える対象的対象関係の一部(恐らくRORU)として分裂した形で与えられる。分裂した対象関係単位の一部として撤去型対象単位から退行した防衛機制と結び付く。

抑うつの防衛は偽自己の基盤となっている。WORUもRORUも子どもにとって真の自己ではない。このマスターソンの記述は俺にとっては誤解でなければsplittingの萌芽のように思える。偽自己から真の自己を発生させるためには母親からの分離という課題を達成させなければならない。

真の自己を隠すため、偽自己を発達させるのではなく、母親の鏡像化によって達成させるこのプロセスはラカンの言う鏡像段階とは明らかに違うように俺は思う。自らの存在をそれと認識する鏡像段階理論と違い、より発達の初期に起こるものだからである。

マスターソンの対象関係理論に関する理解は、かならず幼児が病的な発達段階を辿ることを想定している。これは対し関係理論の中核をなしている概念。見捨てられ抑うつから真の自己は発生する。そうすると偽自己も発達するという矛盾を常に孕んでいると俺は思う。

したがって偽自己は発達、病的防衛機構を発達させる。このマスターソンの理解が境界例概念の源になっているように思える。マスターソンが挙げるのはウィニコットの偽自己の概念。ウィニコットはかなり極端な例を挙げている。

マスターソンによれば、自発性がなく服従や模倣が中心的活動、想像力も象徴機能も用いない偽自己の例を挙げている。ピアジェの言う象徴的思考期はちょうど2〜4歳となっているのは偶然かもしれない。ウィニコットは「かのような」as if personalityが偽自己だと理解する。

新宮一成先生はクラインとラカンを連続性のあるものとして見ているのだけれどもそれは間違いではないと思う。ビオンが統合失調症を診ていたようにラカンはパラノイア症例「エメ」で先進的な試みを行っていた。当日のフランスではパラノイアの定義が曖昧だった。1932年。

当時のフランスでは気質的要因として妄想がパラノイアには発生していると考えられていた。ちなみにこの辺りは全部俺の勝手な解釈だ。統合失調症の概念も不分明。ラカンはヤスパースの「了解」概念とフロイトの超自我概念をパラノイア理解に使おうとするアクロバティックな試みをしていた。 

ラカンはエメの症例を通じ、パラノイアは心因によって起こると解釈した。フロイトの「否認」はラカン解釈の鍵になる。そのdenial概念は後にソシュールを通じ言語学にも融合する。ラカンほど家族関係に着目した分析家もいなかったという理解もできる。

エメの症例は1950年代にも引き継がれていく。エメは女優Z夫人に近づいていくがZ夫人は多くのファンの1人だろうと手馴れて断る。ところがエメはナイフを出してZ夫人を切りつける。パラノイアというのは現在ならば妄想性障害となるのだろうか。Z夫人は何年も前からエメの悪口を言い、エメを窮地に立たせていた。そうエメは信じていた。

Z夫人と作家P.Bとのスキャンダル。P.Bもまたエメの噂を流していた。Z夫人は手の怪我で済んだ。エメはサンラザール刑務所「誇大妄想と恋愛妄想的気質を伴い、解釈に基づく系統的迫害妄想に罹患」という診断名、俺はこの診断名はむしろドイツ的などこまでも長い連鎖のように感じた。

ラカンのエメに関する論文は1年半に及ぶエメとの対話によって成り立っている。エメはドルドーニュの貧しい農家で生まれ育った。17歳時妄想エピソード、18歳で鉄道会社に首席採用。姉夫婦の住む都会へ移住、プラトニックな恋愛をした。 

エメの同僚、C嬢は没落貴族の末裔にしてエメの親友。エメが23歳まで親交を結ぶ。C嬢はエメに権威的に常に振る舞っていた。エメは結婚をしてC嬢の頸城を逃れる。エメは結婚には不向きだろうと周囲から見られていた。エメは多才、芸術、文化、大学進学にも興味を示すが夫は無関心。
 
俺はエメの症例を語ることによって俺自身も言説を語っている。再び未亡人になった姉を招き入れて同居。姉がことごとくエメの家事に批判をする。ラカンがエメの病を心因と見たのはこの辺りにあったのだろうか。妊娠でエメが不安定になったのはエメ28歳時。

この時にエメは多分発症していた。同僚からのいわれのない悪口、新聞のあてこすり。奔逸した行動。2回目の30歳妊娠時には子が生されて溺愛したエメは車がそばを通りかかるだけでトラブル。フランスから渡米するための書類偽造。作家になり子を大使にするという誇大妄想。

解釈妄想病の診断の下6カ月入院。妄想は一部消失、パリの職場へ単身もどる。バカロレア(大学入試)試験には3回不合格、単身のエメはどんどん家族と疎遠に。息子を取り戻す努力虚しくここでZ夫人やP.Bへの妄想に取り憑かれる。膨大な量の手記を出版社に送り不採用。出版社員を殴り付ける。

ここまでが長い長い前置き。20日間の拘留でエメは罪の意識に苛まされる。彼女は罰せられなければならなかったと被罰妄想、迫害妄想に陥る。リビドーは罰の形で供給された。ラカンはフロイトの性欲理論を持ち出し、エメの性的エネルギーの備給が行われたことをシュレーバー症例と対比する。 

シュレーバーは法曹界で高い地位を占めた。シュレーバーはおそらく性的同一性に当時のウィーンで悩みながら救済妄想を持つ。シュレーバーは同性を愛することを否認する。「私は彼を愛さない」認めたくない感情、例えば「確かに母を夢の中で見なかった」denial否認機制。行き着く「誰も愛さない」

私しか愛さないという自家撞着になっていく。対象リビドーは自我リビドーに転換。

フロイトのナルシシズム入門の引用「自我リビドーと対象リビドーの間には一つの対立があると見ている。一方が余計に使われれば他方がそれだけ減るのである」

エメのC嬢に対する恋着は「私は彼女を愛する」という否定denial 機制によって「私は彼女を憎む」に転化される。その理由は「彼女が私を追いかけるから」という迫害、追跡妄想。エメの抑圧された同性愛リビドーはシュレーバーと相通じる。被恋妄想として出現することもある。

「私は彼女を愛する」はエメによって否定機制denialで「私は彼女を憎む」に転化される。その理由は「彼女が私を追いかけるから」迫害妄想、追跡妄想は抑圧された同性愛リビドー。シュレーバー症例と同様。行き場のない欲望。迫害、追跡妄想は被恋妄想となる。

19世期ウィーンでも1932年のフランスでも公に同性愛は認められていなかったと思う。抑圧されていた。「私(男)は彼ではなく彼女を愛している」という対象者の性を転換させる。迫害妄想と同様、主動作主はあくまでも相手側。パラノイア性精神病は単独で出現することは珍しい。迫害、追跡妄想。

多くのパラノイア性精神病がそうであるように病変は単独で現れることはなく、迫害妄想、追跡妄想、そしてエメの「彼らは恋人ではありませんがあたかもそのように振る舞います」俺はこのエメの発言を転換及び否認の防衛機制と考える。パラノイアは自罰的だ。

エメとラカンの会話を抜き出す。
「何故あなたは子どもが脅かされると感じたのか」
「私を罰するためです」
「けれども何故?」
「私が自分の使命を果たさなかったからです」そして次の瞬間「私の敵が私の使命に脅かされると感じたからです」と述べるエメ。

上記エメの2つの発言は明らかに矛盾している。迫害妄想の理由付け。だからエメは罰せられると感じたのだろう。現代精神医学では妄想性障害と見做されるのだろうか?DSM-5のディメンションシステムに分類できないような了解可能で不可能なエメの発言。ラカンは「文法的なやり方による分析」を試みる。

罰せられると感じたエメは自罰性パラノイアと定義される。倫理観が迫害妄想と一致する。「文法的やり方による分析」はどのようにして「文法的」と感じられるのか?俺はこの言説をラカンの弁証法だと思う。denialは動詞の逆転。私は彼を愛する→私は彼を憎む

主語同士も干渉し合う。「彼は私を憎んでいる」(追跡妄想)

ここからがラカンらしくなる。「彼が愛しているのは彼女だ」(それは私を愛しているのは彼女だからだ)(被恋妄想)いずれの場合にはにもソシュールの「意味するもの」(=記号表現シニファン)と意味されるもの(=記号内容シニフィエ)の二項対立に倣らう。

知覚するもの⇔されるものの対応が想定されている。知覚するもの(=主体)こそは無意識であり、知覚されるものは容易に変ずることのない現実リアリテ。知覚するもの、≒記号表現=意味するものという事実の中に主体=空虚ファルスという図式が見てとれる。

主体=ファルスはラカンの思想の中に一貫して立ち現れている。そこにソシュールが礎となっている。言語学的観点から見た精神分析理論にはソシュールを抜いて語ることはできない。

ソシュール以前の言語学は「通時的」歴史的な観点からのみ語られていた。「共時的」概念はソシュールによってもたらされた。ソシュールにとってはある国で語られていたA言語、また別の国で語られていたB言語も全く同じ地平に並べられる。

言語間では差異のみが問題であり、その差異体系を明確にするために言語全体をラングとパロールに大別する。ラングは言語の語られる場所に特有の社会的な言語的背景や慣習を含むもの。パロールは個々の発話者が頭の中で言語以前の概念が実際に言語となる過程を示す。

言語間では差異のみが問題であり、その差異体系を明確にするために言語全体をラングとパロールに大別する。ラングは言語の語られる場所に特有の社会的な言語的背景や慣習を含むもの。パロールは個々の発話者が頭の中で言語以前の概念が実際に言語となる過程を示す。

すなわち、それは単語の個々に特有の発言の結びつき方(音韻)やそれを細分化した音素。さらに突き詰めると全体として表現される意味の問題、意味論になる。意味の問題を解明することはパロールの解明となる。実在としてのメッセージこそがシニファン。その表現の以前に仮定仮定される前概念。

その前概念が記号内容=シニフィエ。結局ソシュールはパロールの問題に行き着くことはできず、その解明の手がかりとなるシニファン、シニフィエの概念を提唱するに留まってしまった。「言語学でなしうる事の大きな虚しさがわかった」とソシュールは一冊の著作も残さずこの世を去る。

ソシュールがパロールの追究について大きな糸口とした式はS/sであり、S記号表現シニファンがs記号内容シニフィエの上にあることを示している。この図式を取り入れたラディカルなフロイトの解釈こそがラカンの真髄と言える。

ラカンはフロイトの「夢判断」は言語学的な観念を導入したものであると解釈している。夢判断、そして「精神分析学入門」第2部もあるひとつのものはまた別の意味の象徴であるという図式は、パロールの分節化された、シニファン対シニフィエの構造とよく似ている。

何度も同じ記号表現がテクスト(=夢)の中に出現してくる。その国語(=ラング=夢の法則)が再構築可能になるという点で、ラカンはフロイトを優れた言語学者として評価している。(エクリⅠ)

夢の諸解釈について言語学的な観点から圧縮(Verdichtung)についてラカンは言及する。圧縮の作用は、植物の夢に示されている。潜在内容である夢思想Traumgededankenが顕在内容であるTrauminhaltに凝縮されていくというプロセス。

この圧縮の作用についてラカンは換喩métonymicと隠喩métaphoreの概念を用いて説明を行っている。換喩は船のことを示すのに「30枚の帆」と述べる比喩の方法。あるひとつの帆船のことを示しており、小舟や他の船のことを示すのではない。
(夢判断S.Freud.p363夢の作業「植物学研究の夢」)

明確な船の比喩は対象を特定する。隠喩は喩えれば「雪の肌」「林檎の頬」換喩には科学論文に示されるようなシニファンとシニフィエの厳密な一対一対応が要求される。つまりひとつの表現に対してそれが指し示す内容はあくまでひとつでなければならない。

隠喩の場合には、必ずしもひとつのシニフィエに対してシニファンが孫さんする必要はない。この比喩の方法に代表されるのは例えば詩。読み手は必ずしもシニファンとシニフィエの厳密な対応を要求されない自由な裁量を与えられている。

フロイトの述べる夢内容は多くの夢思想が圧縮したものとして示されている。隠喩的存在として存在として圧縮定義されうる。樹/🌴
これはラカンが言うように誤解を招きやすい図式でもある。ソシュールによるS/sの図式。このふたつはありがちな誤解である。

「樹」が実際の樹を示しているとは限らない。tree、Baum、arbre対応も可能。トイレはその図式がよく現れている。男性/🚪女性/🚪
S記号表現シニファン/s記号内容シニフィエ、このソシュールの原型はラカンによって打ち壊されていく。

ラカンにとってはシニファンはシニフィエに対して徹底的な優位を占めていた。夢の顕在内容(夢内容)であるシニフィエに対し、シニファンである夢の潜在内容(夢思想)は広大な広がりを持ち。その象徴性も豊かである。

例えば強迫神経症に見られるような反復強迫はまた、シニファンの無限の洪水であり、それは象徴の連鎖(エクリⅠ)であるとも言われていた。夢の置き換えについて見てみる。「夢に現れる象徴の圧倒的多数は性的な象徴です。」

「表現される内容の数は少ないのに、それの象徴は並々ならず多い」(精神分析入門)例えばシニフィエである男性性器を象徴するシニファンとしてしてはざっとあげられているだけで、ステッキ、傘、棒、木、メス、吊りランプ、飛行船等があるだろう。

夢の中の置き換えのシステムはまた、次の様に解釈される。大文字のSはシニファン(記号表現)を示す。(※精神分析学入門は第二部、夢-第10講、夢の象徴的表現p203)

Ⅰ S |s
Ⅱ S |ss |
Ⅲ S |s |S s |S
大文字のSはシニファン記号表現を示し、小文字のsはシニフィエを示す。Ⅰにおいては単純なdenotation(外示)、ごく普通の言語機能を持つ場合である。※

ラカンはこの概念、denotation、connotationの定義を著作、セミネールの中で1度も行ったことはないが、明らかにその体系を意識したと思われる発言は随所に見受けられる。

この概念は言語学の領域を超えて記号学の分野で誕生した。connotationは「メタ」と同義であるがラカンは「メタ言語はどこにもない」と明言する。初めてこの概念を広めたのは記号学者ロラン・バルトである。

シニファンとして定置され、その上にまたまた新しいシニフィエsが出現し、さらにその全体をひとつのシニフィエとするシニファンSが出現している。

この構造はdenotationに対しconnotation(共示)として示される。シニファン、シニフィエ結合であるdenotationが、より高次のシニファンとして機能する状態である。

「精神分析学入門」では「ステッキ」及び「傘」の群は形状的に類似しているという点によりペニス象徴するシニファンであるとして布置された。また、第2の群中の「メス」は体内に侵入して傷付けるという点で、吊りランプは伸縮するという点で、飛行船は重力に反して直立するという点でペニスを象徴する。すなわち、個々のシニフィエに対し多くのシニファンが対応させられるというラカンの特有の隠喩の概念である。

そこには結局Ⅲに見られるように、無限のシニファンの連鎖により他のシニファンの連鎖によって他のシニファンがそこで欠落したり省略されるということを示している。

以上のような言語学的観点を踏まえた上で、ラカンの理論の中枢を成すとある意味で言えるであろう「鏡像段階理論」「主体」と「他者」の概念について考察を深めていきたい。

鏡像段階理論/一般心理学でも認知の発達に伴う「鏡像」を自己の姿として認識す過程がフロイトの自我理論によって大きく補強された。

幼児が自己の鏡像を自己の像と認知するという、極めて明証性を以って定義することが鏡像段階である。発達心理学者らがこれについて多く言及している。

ワロン(アンリ・ワロン・「身体・自我・社会」ミネルヴァ書房)は5歳の女児が自分の姿を姉妹の像と間違えた例から自我の像の識別は異なった複数の他者の識別よりも困難であることを述べている。
(続くかどうかはわからない)

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photo&lyric by sora (@Skylit_Blue)
 
誰かにもらった優しさのバトン。次はあなたが誰かに渡す番かも。


※ 今日は絵師柊さんのtweetも紹介させていただきます。



◯ 抗精神病薬・睡眠導入剤新薬情報&副作用


※ 本記事は主として公認心理師受験対策用に臨床心理学ブロガーによって書かれたもので、精神薬理学専門家によって書かれたものではありません。この記事の内容に疑問があり、正確な知識を確認したい方については各薬剤の添付文書、各製薬会社のホームページ、医師薬剤師の説明や知識を優先してください。

これまで精神薬理学(主として公認心理師試験に出題されてきた副作用情報)について書いてきましたが臨床心理士試験では薬剤の脳の働き方についての出題もあることから各薬剤の作用機序についても記載します。

◯ プレクスピラゾール
 (商品名レキサルティ)

 先発の似たような薬理学的作用機序を持つア
 リピプラゾール(エビリファイ)は主とし
 てドーパミンD2、D3受容体に働きかけま
 す。統合失調症薬、双極性障害薬として認可
 されたものです。ドーパミンの過剰放出は統 
 合失調症の妄想幻聴などの陽性状態、双極性
 障害の躁状態を抑制します。

  アリピプラゾールにはパーシャルアゴニス
 トであり、ドーパミンが過剰放出されている
 際にはそれを抑制し、統合失調症の陰性状態
  (ぐったりとして傍目にはうつに近い症
 状)躁状態の時にドーパミンが過剰放出され
 ている抑制もします。パーシャルアゴニスト
 は、ドーパミンが過剰放出されている時にだ
 け脳内に働きかけ、そうでない時には何もし
 ないということで過鎮静になるのを抑えてい
 ます。
  セロトニン5-HT1A受容体パーシャルアゴ
 ニスト、セロトニン5-HT2A受容体アンタゴ
 ニストとしても作動することから、統合失調
 症の陰性症状にも働きかけます。同様の理由
 で双極うつに使用されることもありますが
 医師によっては双極性障害でほとんどうつ状
 態がない患者さんにはセロトニン作動が過度
 になることを怖れて処方しないことがありま
 す。

  さて、プレクスピラゾールとアリピプラゾ
 ールの違いですが、プレクスピラゾールの方
 が鎮静化作用が強いですが、しかもその働き
 かけは穏やかです。プレクスピラゾールはド
 ーパミンD2受容体に働きかけます。

 また、セロトニンへの働きかけは強めです。 
 アリピプラゾールはうつ病や小児ASDの易
 攻撃性にも使われます。   
 プレクスピラゾールはASD症状に加え認知
 症のBPSDにも効果と言われています。
 プレクスピラゾールはセロトニン5HT1A受
 容体に対してはパーシャルアゴニストとして
 働き、また、セロトニン5HT2A受容体には
 アンタゴニストとして働きかけるのもアリピ
 プラゾールと同じ共通点です。今のところプ
 レクスピラゾールは統合失調症薬としてのみ
 認可されていないのですが、臨床上は双極性
 障害などにも使われているようです。

 プレクスピラゾールはその薬理作用から
 Serotonin-Dopamine Activity
 Modulator(SDAM)と呼ばれています。
 アリピプラゾールはDopamine System
 Stabilizer(DSS)です。

◯ ルラシドン(商品名ラツーダ)
 リスペリドンと同じく非定型精神病薬と
 して(上記も非定型精神病薬)ドパミン
 D2受容体やセロトニン5-HT2A受容体、
 セロトニン5-HT7受容体にアゴニスタと
 して働き、パーシャルアゴニスタとして
 セロトニン5-HT1A受容体に働きかけま
 す。本薬剤はセロトニン-ドーパミン拮
 抗薬
 Serotonin-Dopamine Antagonist(SDA)
 です。先に挙げたリスペリドン、特にル
 ラシドンの効果的が期待されているの
 は双極うつ状態です。双極性障害はうつ
 状態が長期化する人が多いのでルラシド
 ンの働きが期待できるほか、統合失調症
 への効果もあります。副作用としては抗
 ヒスタミン効果(花粉症薬を服用した時
 のような眠気が強く出ること)、抗コリ
 ン効果(口渇感、便秘)などの副作用が
 低いことも知られています。

◯ スボレキサント(商品名ベルソムラ)
 従来の睡眠導入剤というとベンゾジアゼ
 ピン系のデパス系の鎮静剤を思い浮かべ
 るのですが、睡眠を左右する物質メラト
 ニンの活動を左右するラメルテオン
 (ロゼレム)の登場は画期的でした。
 ベンゾジアゼピンBZ系は耐性がつきやす
 いのですがそれがない。ラメルテオンが
 効果があるかどうか人を選んでいたのを
 さらに新しい作用機序でBZ系以外で働
 きかけるようにしていたのがスボレキサ
 ントです。覚醒を維持するのにはオレキ
 シサンというホルモンが重要なのですが、
 それをブロックすることによって自然な
 睡眠を導くようになっています。

◯ さらにこの流れを汲んで開発されたのが
 レンボレキサント(商品名デエビゴ)で
 す。オレキシン受容体拮抗薬としてスボ
 レキサントと同様ですが、レンボレキサ
 ントはより強くオレキシン2受容体に強
 働きかけます。また、この薬剤はレム睡
 睡(覚えている夢)を抑止することから
 悪夢を見にくくなります。ただしレンボ
 キサントは肝機能低下要素がある患者さ
 んには注意または禁忌です。

◯ 副作用

このblogでも薬剤の副作用について については取り上げていますが、復習です。公認心理師試験には必出です。

SSRIにより自殺衝動が急に高まりやすいのではないかという賦活症候群、不随意運動で苦しむジスキネジア(オーラルジスキネジアだと口内で舌が不随意運動を起こす)、アカシジアという足がつっぱるようなむずむず足症候群(患者さんによっては両足を切り落として欲しい、自殺既遂する人もいる苦しさです)、ジストニア(全身の不随意運動)などがあります。(これらは既出)

麻痺性イレウスという腸蠕動停止(死に至る場合あり)高プロラクチン血症は男性も乳汁漏出、性欲低下が認められることがあります。抗コリン作用という口渇感、便秘についても抑えておきたいです。

※ちな、以前は陰性症状だけの存在で統合失調症と診断されていましたが、現在では陽性症状もなければ統合失調症と診断されません。※

あとtweetでも紹介したのですが脳科学についてわかりやすく紹介してある 脳科学から見た統合失調症 のサイトを見つけたのでご参考まで。

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photo&lyric by sora (@Skylit_Blue)
ひとが何かを感じるのは大なり小なり環境に変化があった時。美味しい(まずい)ものを食べた時、美しい(醜い)ものを観た時、夢から醒めた時、それに伴って喜怒哀楽の感情が生まれた時など。無感情に近い静かの海を漂うも佳し、激情の大空を舞うも佳し。そのどちらもあるからこそ人生は面白いんだろうね。


◯ 認知症患者をdisる医師を軽蔑します

1.序

Twitterで某クリニックの医師が長谷川式知能検査(HDS-R)で認知症患者さんの取り繕い反応(今日は何月何日?→カレンダー自分で見たら?100から7引いたら?→いやだ)を「大喜利」と呼んでいたことについて、僕がtweetしたりクレームを入れたら医師から謝られたということがありましたが、まだ大変不愉快な思いをしています。これについて自分自身の体験とオーバーラップしているところがあり自分語りを混ぜながら書いてみます。



母が昨年10月に悪性リンパ腫で悶え苦しみながら死去、その1カ月後に元気だった父が突然ラクナ性脳梗塞を起こし左後頭葉壊死による右側半側空間無視、頭頂葉前頭葉にも病変部があり流動性知能はめちゃくちゃな状態、HDS-Rは12点被保佐人です。

傾眠傾向がひどく、血栓を融解させるバイアスピリンを通常の倍量服薬していて転倒出血したらすぐ救急車を呼ばなければならない状態で僕も含めた親族で在宅介護を緊張しながらしています。

今度梗塞を起こしたら心筋梗塞なのか脳梗塞なのか、今度はどの脳の部分にダメージがあるのか、ALSのように意思表示ができなくなるのか、歩くこともままならないけれども入院を死ぬほど嫌がっている父の在宅介護を追求しています。

何千回も同じ話を楽しそうにしている父のことを昔からわかってくれている喫茶店のマスターはいつもニコニコしながら父が話を繰り返すのを聞いてくれているのです。

DMというベースライン疾患も持っている父の余命は限られているだろうことと、感染症に注意を払い僕も大きく行動制限をせざるを得ないという事情があったのでなおさら不快に思ったのでしょう。しかしどの家族も何かを必ず抱えているのは医師なら知っているのが当たり前と思っています。

2.医の倫理

ヒポクラテスの誓いにあるように患者に危害を加えない、そして固く口を閉ざすという倫理基準は多くの医学部で新入生が宣誓させられています。

ヒポクラテスの倫理を現代版にしたジュネーブ宣言でも人間への尊厳や守秘義務が書かれていて、この宣言をさせる医学部も多いです。

3.個人情報保護

そもそも刑法134条1項には医師、薬剤師、医薬品販売業者、助産師、弁護士、弁護人、公証人又はこれらの職にあった者が、正当な理由がないのに、その業務上取り扱ったことについて知り得た人の秘密を漏らしたときは、6月以下の懲役又は10万円以下の罰金に処するが定められていて、心理職も当たり前ですが、守秘義務は自他の危害のおそれがあるごく限られた場合を除いて(患者が殺人予告をして実行したことを誰にも言わなかった医師が訴追されたタラソフ判決、労働契約法第5条安全配慮義務)個人情報には重い守秘義務が課せられています。

神経質なのかどうかはわかりませんが僕は急な呼出しがかかった時は父の介護中、交代で叔母に来てもらう時にも「どうして?」と言われて「言えない」と言っています。

患者情報は関係のない同僚ばかりでなく心理職同士で引き継ぎをする時でも僕は患者さん本人の同意が得られなければ交換しません。 

そう言えば若い青年のクライエントさんがやって来た時に「主治医の先生には言わないでください」と痛切に訴えたことに対し、じっと秘密を守り続けた津川律子先生の「面接技術としての心理アセスメント」中の症例紹介は実に堂々とした心理士としての揺るぎないどっしりとした態度が描かれており、感心して読んだのを覚えています。

「医療・介護関係事業者における個人情報の 適切な取扱いのためのガイダンス」 に関するQ&A(事例集)平成29年5月30日 個人情報保護委員会事務局 厚生労働省 には医療における個人情報保護についての詳細なガイドラインが示されています。

診療録(カルテ)開示についても触れられていますが、診療録はかなり重い個人情報です。家族に開示しない場合もありますし、弁護士にも開示しない場合もあります。

(話は逸れますが本人からの開示によっても病状が悪化するおそれがある場合は診療録開示を行わないことができます。異議申立ては都道府県に対してできるのですが、ほとんどの場合却下されています。精神科における情報取扱いの暗黒部分と言えます。)

という法律や通達、各種ガイドラインでぎちぎちに縛られている患者さんに関する情報を、この医師だけでなく
なぜ安易にSNSに書き込む医師がいるのでしょうか?

ちな、Twitterでは非常に立派でSNSを通じて医療情報発信や医療社会活動をしている医クラ医師の先生たちはとても多く、呼吸器内科医キュート先生、病理医ヤンデル先生ほか内外の先生方から多くの情報を得ていて感謝していることも書き加えておきます。

4.患者や家族の尊厳

母の担当医は若い研修医出立ての医師でした。意思表示がもうできなくなった母が亡くなる寸前、医師がどうしても聞かなければならない選択肢を家族に聞きます。心停止した場合、挿管(気道確保)をするか、心臓マッサージをするかについてです。

医師は慎重に言葉を選びながら、母はもうどんな治療をしても命は助からないこと、救命措置をした場合、生きられる時間は伸びるかもしれない、ただし挿管の苦しみと心マで肋骨が折れるかもしれない、その場合もし少しでも意識があったら最期の記憶は激痛だろうと説明してくれました(この心停止後のIC=インフォームドコンセントのやり方について議論はあります。)。

死の際という最も家族にとってはショッキングな事態に際し、落ち着いた口調で丁寧に説明してくれた若い医師に対し、僕は並の心理職よりも高いICにおける心理的介入のスキルに感心しました。

若い医師は家族に選択権があることを伝える義務がありながらも母に苦しみを与えたくなかったのでしょう。なるべく心停止後は救命措置を行いたくないニュアンスを込めながら、どうしますか?と医師が言ったとき父が「一瞬でも長く…」口を開きかけたのを僕と妹(仲悪し・看護師)が同時に「やめてください」と言い、父も肩を落として「わかった…」と。

前置きが長くなりました。若くて研修医終わり立てでも何科でも優秀な医師は心理学者としてもカウンセラーとしても優秀なのです。

僕が前掲tweetの医師の発言に悔しい感情を持ったのは、メスも薬も持てないけれども、心理職として一人の命を大切にするためにいつも心砕いている自分の仕事が大切にしている宝物のような患者さんや家族の尊厳を穢されたような気がしたからです。

クライエントさん、患者さんがどんなに破綻していても機能が低下していても、まず否定から入ったり、笑い者にしたり、それを大喜利とまで呼んでSNSに書くような心理の後輩がいたらまず怒鳴りつけるか淡々と心理職を辞めるように説くでしょう。そして見放すのではなく見捨てると思うのです。

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きょうも
心のさえずりに耳を傾けて ໒꒱⋆゚


◯ タレント精神科医・臨床心理士は要らない

1.自称有識者が専門性の大安売りをしているという事実

大きな事件が起きる度、精神医学・臨床心理学の専門家が自称有識者としてマスコミに登場して当事者の精神状態を分析して勝手に診断名までつけてしまう。これは刑法民法における名誉毀損・侮辱罪にならないの?

といつも思ってしまいます。文春オンラインで《渡部不倫》精神科医が分析「妻を愛していながら、自己愛と性欲はなぜ暴走したのか」という記事内で片田珠美氏がタレント渡部氏のことを「自己愛性パーソナリティ障害」ともちろん会いもしないのに診断し、「Aという事実がある、それに対して私はそれを根拠として診断する」という「安物の精神分析はもうやめませんか?」(片田氏は精神分析が専門)と思うわけです。

そうすると精神医学だけでなく精神分析への冒涜に感じてしまいます。実はこの人はフランス精神分析家ジャック・ラカンの難解な精神分析理論を放送大学でとで平易に説明していたことがあり僕はそれを見て「すごい頭がいい人だなあ」と思っていたので感心していただけにがっかりしました。

また、重大犯罪が起きるとそれに対してやはり識者として精神科医や臨床心理士が引っ張り出されてくるわけです。

その度に会ったこともない被疑者の診断・心理分析を行う専門家たちの専門性はどうなっているのでしょうか?

医師も心理職もそれぞれ厳しい職業倫理と秘密保持義務を背負っているわけです。特に犯罪被疑者はどんな重罪を起こして犯行に及んだのが被疑者だろうと思われたとしても、推定無罪の原則が働くわけです。

そういった意味では何か事が起こると被疑者が犯罪を起こしたに違いないとまず有罪ありきで考えてさらに被疑者の心理分析までしてしまうという事は推定無罪の原則を覆してしまうわけです。日本の刑事裁判は確かにほぼ100パーセント有罪判決が出ますが、冤罪だつたらどうするのでしょうか?

2.マスコミによる印象操作

マスコミは有識者が言うことを報道しただけだから、関係ない、自分たちの 責任ではない、というスタンスを取るのでしょうけれどもそんな理屈は通りません。

また、僕が許しがたいなあと思うのは犯罪がある度に精神障害者は無差別に犯罪を起こす危険な存在として扱われることです。

僕が精神科機関病院でバイトしてた時には土日当直で措置入院患者の判定のために精神科医2人を自宅待機状態にしていたわけですがとにかくもうヒマでヒマでしょうがない。有名なことですが「などと被疑者はわけのわからないことを述べており」というのは99.9%ヤク切れで暴れている人ですが、後からたとえそうだと判明したとしても、マスコミはそれを報じません。

なぜならばそういう事を報じても面白くもなんともないからです。有名な話ですが、統計を取ると精神障害者の犯罪率は一般人に比べてはるかに少ないです。

少年法もこれまで20歳未満だったのを18歳未満に適用を引き下げて検察官送致として少年犯罪を厳罰化しようとしています。

ちなみに少年犯罪は少子化の影響で発生数が劇的に減少しており犯罪発生率も有意に低下しています。

これは立法府による、まあ人気取り施策です。なんだかよくわからないけれども厳罰化厳罰化と言っておけば支持率は上がるだろうという安易な流れができています。

今の少年たちは暴走族で群れるよりは、家の中でゲームをしている方が面白く、古くは棒を振るってヘルメットをかち割るような団塊の世代のような事はしません。

気が短くて荒々しく凶悪犯罪を多発させていたのは団塊の世代で、横断歩道で歩行者にクラクションを鳴らして気ままに前車を煽る運転をするのも団塊世代とコラムに書かれるような事を今どきの若い人はしません。

この少年犯罪の厳罰化にも精神科医や心理学者は深くかかわっていて、自称プロファイラーなどとわけのわからない有識者は述べており、当局は厳しく取り調べを行うべきだと思います。

今回の新型コロナでもそうですがマスコミは専門性がない自称識者の怪しい説を垂れ流しています。

マスコミは第4の権力と呼ばれて久しいのです。SNSという、国民の生の声がさらに厳しくマスコミや政治を批判して検察庁法すら撤回させている今、半値8割引きのバーゲンよろしく専門知識をわけもわからずに振り回している識者たちは自らの価値や拠って立つその専門性も大暴落させているということに気付いて欲しいです。

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photo&lyric by sora (@Skylit_Blue)
あの頃は
幸せはそこにしかないと
思っていたね


◯「精神科は、今日もやりたい放題」なのか?

標題は、精神科治療は薬漬けではないか?という問題点について指摘し続けている医師、内海聡氏の著作のタイトル名です。彼については様々な毀誉褒貶があり、僕も彼の言説に触れていると複雑な思いがするのですが、一面で鋭い指摘もなされています。

1.精神科医療の現状

内海聡氏は1973年生、筑波大学医学部卒業後、勤務医を経たのちに茨城県牛久市で「牛久東洋医学クリニック」を開業、その後現在では東京でTokyo DD Clinicで一切西洋薬を使わない自費診療クリニックを開業しています。

さて、従前から日本の精神医療の問題点として指摘されているのは「過量・複剤処方」で、患者さんが薬漬けになってしまうという危険性です。

処方量の適正さについてのひとつの目安としてcp換算値という単位があり、内海氏もこのcp換算値を重視しています。

※ 地域精神保健福祉機構CHOMHBOのcp換算値が計算できるサイト
https://www.comhbo.net/?page_id=4370
(レキサルティはまだ掲載されていません。)

抗精神病薬の作用機序や相互作用はさまざまなのでcp換算値=絶対、というわけではないのですが、統合失調症薬として使われている定型・非定型精神病薬は、最も古い抗精神病薬として知られているクロルプロマジン(商品名コントミン、昏倒眠とも揶揄される鎮静効果あり)を基準として1000mg以上が1日量として処方されている場合、必ずといっていいほど過鎮静になります。

過鎮静になると全くといっていいほど動けなくなり、食事、水分摂取、トイレに行くのすら一苦労です。

600mg以上でも過鎮静になっている可能性もありますし、300mg以上でもその人の状態によっては副作用症状の方が強めに出て動けなくなることもあります。

内海聡氏は茨城県でクリニックを開業していたころから、こういった過鎮静に陥っていると思われる患者さんやその家族に書籍や講演などで情報発信をしていき、同クリニックは関東中から寝たきり、引きこもりになっている精神疾患患者さんが藁をもすがる思いで集まるようになりました。

内海氏の著作として「精神科セカンドオピニオン2」などがあります。統合失調症と発達障害には見分けがつきにくい場合があり、統合失調症の症状が改善しないので精神科医がどんどん投薬量を増やしていくと副作用のほうが強く出てきた患者さんをよく内海氏が成育史などを聞いていくと発達障害の場合がある、だから抗精神病薬を徐々に抜いて漢方中心の治療に切り替えるとよく体が動くようになって病状が改善するというものです。

実際、僕も色々な医療機関で治療を受けてきた患者さんと話をしてきたことがありますが、過量服薬となっていた患者さんたちは確かに多いです。

内海氏著作標題書にも述べられていますが、医師の人格と投薬センスとは無関係なもので、それは彼の指摘のとおりです。

古いタイプの教育を受けた、または投薬センスがよろしくない医師はまずA薬という薬を処方してみます。そして症状が改善されないようだからとB薬を出します。

そうすると副作用が現れ、副作用止めのC薬を出し、なんだかよくわからないままに病状が悪化しているのでなんらかの副作用止めD薬に加えてまた新しい抗精神病薬E薬を追加、増量してそうこうしているうちに立派な過鎮静患者さんが出来上がってしまうというわけです。

こうなると一向に良くならないどころか全く身動きが取れなくなってしまうのですが、人柄がよくいつもにこにこしていて優しい主治医の言うことは絶対だし、信じていればいつか良くなるだろうと思っていても良くなるわけがないです。そうすると自己流で減薬、断薬を試みたりするのですが、抗精神病薬の減薬断薬を一気に行うと、強い薬のカクテルで抑えられていた症状が再燃して悪化したり、横紋筋融解など身体的有害症状も出て死に至る場合もあります。

ですので過鎮静にまで至っている患者さんの場合には慎重に1年ぐらいかけて減薬を行うのがセオリーです。以前の内海氏は統合失調症と誤診されていた患者さんを発達障害、アダルトチルドレンと診断し直し、西洋薬は最小限処方で、漢方中心の治療法に切り替えるという治療方針を取っていました。

確かに日本の生物学的精神医療は過鎮静を引き起こすような治療を行っているこういった暗部を抱えていています。興奮性症状を示す患者さんを過鎮静にさせてしまえば施設内では楽だからそうしている「薬物ロボトミー」を行っている機関もあるという恐ろしい事実もあります。

欧米では抗精神病薬は基本的に単剤処方しか認めないという流れがあり、日本でも単剤処方主義の大学病院やその流れを汲む医療機関は数多くあります。

ただし、抗精神病薬=悪、減薬断薬=正義、と決め付けてしまうのは危険性も伴うと思うのです。

2.内海氏に対する個人的な疑問

発達障害なのだろうと思い、減薬断薬第一で治療をしていて実際には統合失調症だった場合、症状が増悪すると必要だった薬が投与されていない、その場合に必要な手当てがなされているのだろうかという疑問があります。それとも統合失調症と発達障害を初めからきちんと峻別し、発達障害のみを治療対象としているのでしょうか。

薬害に関するNPO法人を主催している内海氏ですが、代替医療としてのホメオパシーを推奨しています。

ホメオパシー、反ワクチン主義は世界的に科学性に乏しいとして批判されています。過去にホメオパシーを医療行為の代わりに実施したことで死亡例も出ているのです。

内海氏の他にもホメオパシーを推奨している医師はいるのですが、それは西洋薬をきちんと投与した上で総合的な治療行為としての安全性を担保した上で、どちらかというとホメオパシーを精神療法の一種として行っています。

治療行為としてエビデンスが確立されている抗精神病薬など西洋薬を一切使用しないという内海氏の治療方針はいかにも危なげに思えます。

食事療法は精神医療においても大切と思えますが、内海氏の、妊婦の食事状態が悪いから発達障害児や自閉症児が産まれるという見解の表明は、産婦人科医からエビデンスがないと猛烈な反発がありました。こういった子どもを持った親に対してはスティグマを持たせることになったことでしょう。

内海氏の著作や発言の過激さを見ていると、患者やその家族に対し、自らを信奉するように強要していないかという不安を抱いてしまいますが、それとも元々内海信者のみを治療対象としているので、インフォームドコンセントを含めたその辺りの問題はクリアされているということなのでしょうか。僕は「信者」を作るような医療を個人的には好みません。

内海氏は反原発論者でそれに関する著作もあります。政治的思想は誰が持つことも自由でその意見表明も自由です。

ただし、医療においてエビデンスが不足していると、僕のような心理職としては彼の行なっている新しい試みに関してのメンタルケアは大丈夫だろうかと不安になるわけです。(心理職を雇用した方がいいという意味では決してありません。独自の発想に基づく治療には医師自身が患者さんに対するケアを十分に行うべきで、脱落者や増悪例への対応がなされているのかという懸念を含みます。)

もちろん彼の自費診療中心のクリニックには行ったこともなければ診療受付、適応症から治療に至るまでの流れも不明なので、その辺りを知らないと十分に疑問は解明できないかもしれません。

Twitterアカウントをいくつか持っている内海氏ですが「キ◯ガイ医師」というような精神障害者への差別と取られかねないハンドルネームにもその思想的な危惧を抱くのです。

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