ひなたあきらのおけまる公認心理師たん

新制度公認心理師の検証をしばらく続け、この制度がよりよいものになるための問題提起を行いつつ、カウンセリングの在り方について考え、最新の情報提供を行っていきます。ほか心理学全般についての考察も進めていきます ブログ運営者:ひなたあきら メールアドレスhimata0630★gmail.com(★を@に変えてください。)

カテゴリ: 精神医学

今日は依存症について話してみた動画をアップします。
依存症は大変奥が深く、何年、何十年単位でかかわって治療が必要なことも多いです。
受験生の方、そして患者さん方のために役立つような知識を話してみました。
最近ではアルコールについては「断酒」よりも「減酒」に治療の注目が集まっていること、スリップダウン(再発)をしたとしても患者さんを責めないという位置づけが治療の主流になりつつあります。

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複雑性PTSD と「精神分析医」の破綻

インターネットニュースに皇室「複雑PTSD」と眞子さまについての記事が掲載されていました。これについて精神科医の片田珠美氏が精神分析的な解釈をしていました。ここで述べられていた精神分析的キーワードは眞子さまの「幻想的願望充足」と「ほれこみ」です。

眞子さまの「幻想的願望充足」というのは、願望と現実を混同していることと片田氏は評価していましたが「え、見て(診て)もいないのに」といつもながら精神科医に対して感じました。眞子さまは特にこの件について自分のメンテリティについて一切言及していません。

アメリカ精神医学会ではこうした、本人を見ていないのに勝手に診断をすることを禁じています。これを

ゴールドウォータールール

と呼びます。

なのに「小室さんと結婚しさえすれば、窮屈な皇室から抜け出すことができ、幸せな生活が待っていると幻想を抱いておられる」と片田氏は断定しています。

昔、僕は師匠の先生から言われたのですが、解釈をするのに思い切った解釈をすると「大刀を振るうと、当たった時にはよく切れるが、もし大胆なことを言って外れたらその時は全く別なところを斬りつけるからお互いに大怪我をする」と言われました。

こと、複雑性PTSD という、ICD11 で初め取り入れられた新しい疾患単位だと、従来のPTSD に加えて「情動調節障害」「対人関係障害」「否定的自己概念」の3つが加わっています。

これはPTSD よりもかなり重い症状であり、片田氏は眞子さまのどういった点がその診断基準に当てはまるのかわからないまま自説(仮定)をどんどん推し進めています。こういった特徴がある、診断も難しく、症状も重篤な概念ですがどこに眞子さまの診断基準が当てはまるのかは述べられていません。

これら病状の解釈に手間取るような疾患ならば、なおさらきちんと本人と話していないのに解釈めいたことをするのは危険なのではないかと思います。

また、片田氏は小室氏の行動は「しくじり」(この場合は(どうせ批判されるのだから帰国して会見なんかしたくない、&人前に出る時はきちんとしていなければならない・片田氏の言葉を引用))「二つの意図の“干渉”によって生じる心的行為」とも片田氏は断定しています。

これについて小室氏の「しくじり」は少しうがち過ぎな気がします。なぜならば、片田氏はこういった、無意識の業がなせるような電車を乗り過ごしてしまうような失敗=「しくじり」がある=小室さんの本性は眞子さまに「もう優しくする必要がない」と判断してしまえば、眞子さまの「幻想的願望充足」も覚めるだろうとも決めつけています。

別に僕は小室氏の味方をしているわけではないのですけれども「しくじり」=小室氏に危険性があるという解釈そのものが危ういです。何が危険かというと、僕自身(教育分析は受けたことはないものの) 精神分析書は半ば勉強、半ば趣味の領域で読むことがあります。精神分析流の解釈は「大刀」に近いものがあります。解釈をして抵抗を徹底操作する、大変難しい技法だと思います。

しかしながら片田氏は眞子さまとも小室氏とも話していない。元々精神分析は治療のための技法であり、精神療法なくして勝手にその学派の理論を使ってはならないのではないでしょうか。そういった意味では無手勝流に大刀を振り回しているようで大変危険性を感じるわけです。

片田珠美氏と言えばラカン派をとてもわかりやすく解釈する素晴らしい先生だと昔放送大学を見ていて思ったこともあります。

片田氏の経歴は1961年生、阪大医学部卒業後京都大学博士号取得、ラカンで有名なパリ第8大学をフランス政府給費留学生試験に合格して留学したという大変立派なものです。しかしこの行為はいただけない。

片田流に「見ないでアセスメント」をすると、この片田氏は自己愛性パーソナリティ障害のように、マスコミに度々露出することによって「皆から見られていて皇室と難病の解釈もできる頭がいい私」を演出したいのではないかとまで訝しんでしまいます。

それどころか実際に診てもいない人、しかも皇室という極めて特殊な階層の人を分析するというのは、それこそ分析者の願望の投影なのでは…?とも思います。

第一、「幻想願望充足」があって「ほれこみ」があるかどうかもわからないのにもかかわらず幻想が覚めた時には幻想やほれこみも消えてしまうのではないかという、二重の仮定をすることそのものがどうかと思います。

こういった「見ないで診断・解釈」は有名どころだと精神科医のW氏、臨床心理士でもY氏がよく行っていて、その他にも多くの自称「識者」が行っています。

マスコミはこういった識者からの情報が欲しい、センセーショナルであればあるほど視聴率を稼げる、それはコロナ報道でも同じです。一時期マスコミはコロナに関する奇説を流していた学者の言説を積極的に取り上げていたことがありました。

マスコミは自称「識者」にこういった言説を言わせることがあり「これはマスコミ自身の責任ではなくて『こういう意見を持っている人もいる』」という報道をしている姿勢なのですが、疑わしいと思っている視聴者から見ると「同罪ではないか」と思う人々もいるでしょう。

またその逆に「偉い先生が言うのだからこれは真実なのだろう」と思う人々もいるでしょう。

全てのマスコミがこういった報道姿勢を取っているわけではなく、きちんと事実と根拠に基づいて報道している媒体もあることは事実です。

したがってこういった、いわば「有識者としての見解」はしっかりとした裏付けのあるものだけを述べて欲しい、そうでないと学派そのものの信頼性にかかわってしまうと思うのです。

photo by ᴷᵁᴿᴼ' @PhotoKuro_

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ғʀᴀɢʀᴀɴᴄᴇ.
photo & lyric are by ᴷᵁᴿᴼ' @PhotoKuro_

#ファインダー越しの私の世界
#写真撮ってる人と繫がりたい
#写真好きな人と繋がりたい
#写真で伝えたい私の世界
#カメラ好きと繋がりたい
#写真で伝える私の世界
#写真で奏でる私の世界
#カメラのある生活
#キリトリセカイ
#カメラと私
#α6400

○ メンブレ公認心理師受験生の強味(兼心身症学習)

1. 序

日本心理研修センターの「受験の手引き」に明記されていますが、医師の診断書、「〜について特別の配慮を要する」とあれば別室で少人数(受験会場で場所が確保された場合) 精神疾患患者は受験ができると書いてあります。この落ち着いた雰囲気での受験を手放すのはもったいないと思います。

飲水も「多分」「服薬中で抗コリン作用のため口渇感があるので配慮願いたい」と診断書に一行書いてあれば可能、IBSの患者さんはトイレから近くの席に座れるようにしてもらえるという事です。

今回の試験で出た心身症の本態性高血圧、糖尿病、慢性疲労症候群、甲状腺機能低下症のほか、胃潰瘍、十二指腸潰瘍、UC(潰瘍性大腸炎)、IBD(クローン病、消化管のただれ)、 機能性ディスペプシア(胃カメラで異常所見ないにもかかわらず胃もたれ胃痛がする)、アレキシサイミア(自分で感情表現が苦手でストレス性高血圧、潰瘍になる。心理テストTAS-20、トロントアレキシサイミア尺度があります。) アトピー性皮膚炎、筋緊張型頭痛、偏頭痛、痙性斜頸、疼痛性障害、ぜん息、リウマチ、繊維筋痛症(慢性疲労症候群との併発が多い。全身疼痛と、うつ状態)PMS、PMDD、更年期障害も含まれるでしょう。

なおこのあたりの心身症はMSDプロフェッショナル版で検索すれば詳しくなれます。

まあ、ありとあらゆる病気は心身相関があるとも言えるので診断書さえあれば、落ち着いた雰囲気で受験できるでしょう。

2. 精神疾患・心身症がある人が受験した方がいい理由

まず、心理をやる人というのは健康な人もいますが、かなりの割合でメンタルを病んでいる人もいます。メンタルを病んでいる人というのは、薬にも副作用にも詳しいです。「先生、セロトニン系作動性抗不安薬としてはタンドスピロンクエン酸塩(商品名セディール)は僕の飲んでいるブチノフェロン系誘導体(ハロペリドール)との交叉耐性はどうなんでしょうか。錐体街路症状が心配なんですけれども」

と薬物変態系心理職なら診察がサクサク進む上に、変薬を繰り返していれば、自分の飲んでいる薬にどんどん詳しくなります。今回の試験もいつもの薬物副作用のほかに薬物動態学にも詳しくなれるでしょう。

3.病気から知識を広げる

新薬が出るときには必ず RCT(無作為抽出試験)を行っており、A という薬を与えた実験群、なにも与えない統制群とで比較実験をしてエビデンスを確かめています。さあ、そこからコホート研究(特定要因に暴露された群と暴露されていない群の疾病率の差異を見る)、メタアナリシス (メタ解析)、システマティックレビュー(コクラン共同計画・あらゆる RCT 文献を集めて検討する情報集積)はいつか出題されると思っています。

そしてそこから統計数理に知識を広げていきましょう。そして基礎心理学、社会心理学、実験心理学などは統計解析を基本としています。心理検査もその実証性は統計解析によるものです。全く意味がない心理検査を行ったところで無駄です。そこから古典的テスト理論に学習の幅を広げていってもいいわけです。

さて、以前ケニーさんが「心理学は面白くて仕方ない」と言っていましたが、こういった心理学の歴史を作り出したのは誰か?心理学史も勉強します。ここまでくればなかなか大したものだと言えます。かなりの量の学習をしたことになります。

4. メンブレはレジリエンスの証

もし受験生がメンブレイクな人だったとしましょう。これは思い出してみると僕もかなり思い当たるところがあります。僕の場合には「極めて小心者」という性格上の特徴があります。その意味では「ちょい豆腐メンタル」というところがありますので最近変わり冷奴の投稿ばかりしています。(バズった多国籍冷奴)

さて、もしメンブレていなかったならば僕はのほほんとして勉強しなかったかも知れません。そうするとなにやら本当のメンブレに近い、いやほとんど超越している僕は危機感を感じることができました。この文章を読んでいる受験生のあなたは正解です。「これは大変だ」と思えることこそパワーにつながります。

公認心理師試験対策

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photo&lyric by sora (@Skylit_Blue)
「誰かに言われたから」などの外発的動機ではなく「自分がそうしたいから」という内発的動機が大切なのは、「最終的に自分が決めた」という想いによって責任の所在が自分になるからだと思う。そうすれば、言い訳も敗因も後悔も、全部自分の中で完結する。自分の人生に責任をもてる生き方をしたいね。


◯ ジャック・ラカンの冒険

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主体がまず第1にファルス(空虚)なものとして表現されることは先の図式lで述べた通りだがこの式においてもそのようにみなされる。

主体そのものは式の中のどこにもない。⑵の主題にとってシニフィエは想像界ル・イマジネールの双数的関係のパートナーである母親の持つ欲望の出現を待ってS/sのシニフィエとなる。

ラカン・父親の隠喩

主体がまず第1にファルス(空虚)なものとして表現されることは先の図式Lで述べたとおりだが、この式においてはそのようにみなされる。主体そのものは上式中のどこにもない。⑵な主体にとってのシニフィエは想像界ル・イマジネールの双数的関係のパートナーである母親の出現を待つ。

ラカンによれば、主体は子どもの位置をこの式の中に占めているのだが、空虚なのである。また母親の欲望は母親であるがゆえに父親の名を欲する。それは現実の父親ではない象徴としての父親であり、故に父-の-名と表現される。

したがって本来S/sの図式に収まらなければならないはずの母親の欲望は⑴式の中ではシニフィエの場に移動する。母親の欲望が父親を優位に付置する事を求めた結果である。そして主体の空虚性が母親をシニフィエの位置に置く事になったのである。

しかしまた、逆に主体が空虚であるからこの母親の欲望が導いていたとも言える。母親の欲望が父親の名を欲するので⑶式のように父親の名を中心として主体は収束していく。母親の求める父親の名は名前だけの象徴的なものであり、そこに⑶における空虚なシニフィエとしてのファルスが出現する。

Aは大文字の他者である。主体は母親の欲望に導かれて空虚なシニフィエAの他者としてのシニファン、そして象徴でしかない「名」としての父親の世界にたどり着く事になる。

ラカンは無意識が表面に現れて意識化された形が精神病であるという見解には大きく異を唱えている。しかし無意識が語るという見解には俺も賛成する。

無意識が言語langageであるというのは、フロイトが「外国語を翻訳するように」(ラカン「精神病」岩波書店ジャック・アラン・ミレール編)それを一度ばらばらにして再構成するように読み直すからだという。

あるParanoia性の妄想を持つ妄想を持つ女性患者が、隣室の男性に「雌豚め」と言われたその日の分析で彼女は「私豚肉屋から来たの」という言葉をまず口にした。

妄想の思考-言語体系の中ではしばしば主体と客体の転倒が行われる。

フロイトが優れた妄想の解読者であったとすれば、妄想を持つ患者は正に自分自身がそれを解読せずに話す者、すなわちまるで自分の知らない外国語で話している者だという。

また、大文字の他者ではなく、小文字の他者の言葉で語る者だともいう。なぜ他者性が二重に文節化されなければならないのか。

俺はラカンを書き綴ることによって、俺が臨床を始めた言葉、paroleの存在性について確認作業を行い続ける。この作業が終わった時にラカンを葬り去り、初めて俺は次の段階に進めるだろう。そこに待つのはまたラカンの鏡像段階かもしれないという恐怖に怯えながら。

Schema Lについて幼児は前エディプス期とも呼べる母親との双数的関係の中で常に母親と結合する関係を欲望し、想像界の世界に身を置く。しかし「父の名」はそれを許さず彼に言語と禁止を与えた。

この辺りの記述はフロイトに回帰しながら対象関係論を取り入れているラカンの姿勢が読み取れるが、ラカンは自らを対象関係論者とは認めていない。

父の名は名目上のものでありはすれ、しかし絶対的なものであった。ラカンは良く使われる日常言語を用い、大文字の他者を例証する。

「君は僕の妻だ」
「あなたは私の師」
個人内容言語paroleの中で上記2文にとって、その源泉となって権威を与えているものは一体何なのか、それは主体にとっては未知なるものである。

それは主体にとってその場所からの働きかけはあるけれども見えてくるものではない象徴界の減力、他者大文字のAである。

「私、豚肉屋から来たの」と語る女性にとってはこの大文字の他者Aは存在せず、隣室の男性が語った言葉がそのまま小文字の他者として主体Sに発語を行わせている。

シュレーバーもまた、全ての人間に対し(駄目になった奴)、と呼びかける。

彼にとっても大文字の他者Aは喪失されたものとなり、距離感を失った小文字のa'のparoleで語っている。

「君は僕の妻だ」というparoleは「僕は君の夫だ」というメッセージであると同時に、関係性を大文字の他者Aによって再認する行為であるという。

象徴界から想像界への退行がParanoia性の妄想であるならば、幼児期の鏡像段階によって示された18か月期はまた、想像界から象徴界への運命的な移行の時期であるとも言えるだろう。

象徴の出現という現象についてもまたフロイトは興味深い考察を行っている(「快楽原則を超えて」S.Freud,日本教文社)。

ちょうど生後18カ月になる幼児について、手間がかからないけれどもひとつの困った癖を持っていて、それは部屋の中のこまごまとした物を手当たり次第投げつけるという癖だという。

この子どもはそんな風に物を投げつける時は決まって《o-o-o-o》と叫び声と満足の顔をする。

フロイトの観察によれば、この幼児は糸巻きを投げつけてそれが見えなくなると例の《o-o-o-o》の声を発し、その糸がたぐり寄せられて出現すると嬉しそうに《Da》(いた・あった)と声を上げたという。

《oーoーo-o》はこの時「いない」を象徴する。

また、ある時には母親が長時間留守にしていて戻ったとき子どもが《o-o-o-o》と言いながら鏡に向かって自分の姿が見えなくなるまでしゃがみ込んでいたという。

いわばこの「いないいない遊び」はピアジェなら感覚運動期における保存性の出現、または前運動期への移行とも定義付けられるのであろうが、ラカン流の解釈を行うならば、言語の獲得によって象徴される、きわめて重要な主体の転換期である。

この2つの遊びでは、母親が自分の目の前からある時には消え、ある時には現れるという厳然とした事実の前に主体としての幼児は常に強烈に母親を欲望する心性を1人きりで、《いる-いない》の別の対象に委託し、糸巻きや自分自身によってそれを代理させていると言えはしまいか。

《o-o-o-o》や《Da》という単純なものではあるけれどもこの時、用事は確実に言語の獲得に成功し、掟であり法である他者A、想像界から主体を疎外する象徴を身をもって体験している。

鏡像の認識の成立が、単にピアジェ的な認識論にとどまることなく、言語の獲得も象徴している。自体愛における主体の「寸断された身体」の幻想L’Imaginaireもまた、ただばらばらの身体部分からの移行ということよりも、主体が想像界においては寸断された欲望の総合体であることを示している。

シュレーバーはある時に、自分の死が新聞で報じられたという啓示を受け、死んだシュレーバーの方が生きたシュレーバーよりも才能があり、その血管才能あるシュレーバーよりも才能があり、才能あるシュレーバーと共に同性愛対象のフレシジッヒ博士も想像界の中で死ぬ。

ここまで書いていて思ったのは俺のあらん限りの知識と解釈をもってして、自己流のラカンや精神分析そのものへの解釈をしているということ。それが正しいかどうかなのかはまさに俺自身の自由連想的な解釈になっている。

続き。「上のフレシジッヒ」「光り輝くフレシジッヒ」40から60の小さな魂に分断される「下のフレシジッヒ」を見ることになり「手記」はフレシジッヒが分裂したまま延々と続けられることになる。

確固たる同性愛の妄想対象であるフレシジッヒはシュレーバーにとっては寸断された欲望。ラカンはparoleを3つの領域に分割する。

第1にシニフィエとの隠喩的、すなわち多層的に対応する関係を持つシニファンとしての象徴界

シニフィカシオン意味作用である一対一対応で示すことのできる想像界

そしてソシュールが言語学にその概念を登場させたようにラカンもまた象徴界、想像界の2つの次元にまたがる通時性シンタクスとしての現実界を登場させる。

現実界はまた厳密に現実的であるという意味でその書かれた言説discoursに対応する。discoursの文法の中では書くものは書かれたものと正確に一対一の対応をする。主体はこの3つのparoleの領域を使用社会的言語Langを発することができる。

シニファンを表象的道具として、シニフィカシオンを前概念として、そしてそれらを現実界へと受け入れられるようにする。

他者Aは「君は僕の妻だ」という未知なる場所から主体に現実を語る。精神病的現象とは、ある異様なシニフィカシオンが現実の中に出現することだという。

シニフィカシオンは象徴化のシステム、すなわち言語体系にはこの精神病理的な構造の上ではそれを通過せずに働くのであると同時に、その出現も突然である。「精神病は発病前史を持っていないように思われます」(精神病)

(精神病であるかどうかはその患者の言語能力langageが保たれているかどうかを見ればわかります。)※精神病

実際シュレーバーにとっては通常の言語体系Langから外れている「基本語」の創造なしには彼の「手記」を語り得なかったのだし、突然出現した「子を生す」というシニフィカシオンは主体にとっては何ら象徴としての必然性を持つものではなかった。

シュレーバー症例では結局、「基本語」によって細いシニファンのイトが不可解な創造的世界であるシニフィカシオンを「手記」というdiscoursにまで高められたという事はこの手記によって彼が法曹界への復帰を果たしたのだという事実からも明らかである。

「基本語」によって語られた神への愛の「否定」による救済妄想に至る弁証法は以下のように要約されうるだろう。「私は彼を愛する」→「私は彼を愛さない」→「私は彼しか愛さない」

同じく「否定」の弁証法によってラカンに解読されたエメの症例てまはlangageの著しい破壊は起こっていなかったが同一性の基盤が脅かされていたという事は彼女が激しく女流作家や女優達を憎み、ある時は息子に危害を加える敵を妄想しつつ、またある時には息子を置き去りにして独居していた。

エメは混乱していた。結婚前のN…のC嬢との親交について、シュレーバーが満たされぬフレシジッヒ博士への同性愛的感情から様々な神や魂の妄想に陥っていったように、エメについても、もし女優の代わりにN…のC嬢が現れていたならば犠牲者となっていただろうとラカンの報告はそう言明している。

28歳と21歳の2人の姉妹によって行われた彼女達が使用人として奉公していた家の主人を残虐なやり方で殺したある症例(ラカン「パラノイア性犯罪の動機」現代思想特集号)についても言及されている。

28歳と21歳の姉妹が奉公していた主人を惨殺した症例。「別の人生では私は妹の夫になるはずだったと確信しています」という姉の証言があり、ある時は母子間の想像関係として描きます出された双数性、パラノイア性精神病についての同性愛的な想像的結合が満たされた。

ゆえにまた満たされなかったゆえに現実界への攻撃としてしばしば犯罪が行われることがわかる。

想像界への教育がその存在そのものにより攻撃性を孕まざるを得ないことはまた一見、「死の本能」にも似た概念でもあり得るだろう。

「攻撃的関係が自我moiを構成する」(精神病)

そう言えば遡行して、ffさんの質問に答えた。Schema Lの中で空虚であるはずのファルスΦがどうして主体と近いのか。ラカンは主体、Φ、男根は常に空虚さを伴った偽の存在と定義づけている。

パラノイア性の精神病は同性愛的な想像が満たされても満たされなくてもそれが故に現実界への攻撃としてらしばしば犯罪が行われる。

想像界への脅威がその存在そのものにより攻撃性を孕まざるを得ない事は一見、「死の本能」とも似た概念にもなり得るだろう。「攻撃的関係は自我moiを構成する」(精神病:前掲書)

俺が語っているのは約30年前のラカン研究の歴史。ラカン研究家の新宮一成先生はとうに最終講義を終えている。無意識について触れている新宮先生の「夢と構造」その中に出てくるイザナミ症候群は中絶によって負った傷を治療する経過。在不在交代の原則。

開業ラカン派元精神科医小笠原晋也。彼が婚約者を殺害して懲役9年の刑を受けたことは正に双数的関係。彼の主催する東京ラカン塾は臨床心理士、公認心理師への批判を行っている。正に攻撃的関係による自我moiの形成。

さて、自我はイドにとっての主人であり無意識を主体と見るならば自我はまたあの大文字の他者Aである。そしていつでも自我が人間の主導権を握ることができるようになっている。

想像と象徴は現実の中での戦いを余儀なくされることになる。

しばしば行われるこうしたパラノイア性の犯罪には自己愛的な感情が伴う事が多いのは最前述べたとおりであり、また自己愛的な固着はある時は近親に対し、またある時には自分と同一の性を持つ者へとその対象を移しやすいことがラカンによって観察されている。

パラノイア。ナルシシティックな感情が攻撃行動に繋がり易いのはまた「同性愛」を経た否定の弁証法とラカンは言う。俺は関係ないと思っている。

またラカンのdiscours。「私は彼を愛する」は否定の機能により「私は彼を憎む」に転換される。エメにとっては無二の親友であったN…のC嬢は後に憎まれるようになった。

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photo&lyric by sora (@Skylit_Blue)
朝から虹を見つけた。ただそれだけのことで心の隅から隅まで爽やかな風がそよいだ。


◯ ジャック・ラカンへの挽歌

1.序

ついこの間からラカンばかり書いています。ラカンは臨床心理学を学び始めたばかりの僕にとっては言語という営みをカウンセリングの中で行う最大の敵でもあり、苦しいながらも理解しなければならない最大の味方になるとも思っていました。それをきちんと整理し尽くして僕は次のステップに進みたいと思っています。

この強敵を消化し尽くしていかなければならないというのは臨床の知を理解するという義務感からなのでしょうか。精神分析初期には決して扱ってはならなかった精神病圏を自由闊達に飛び回るラカンやビオンから遡るときっと境界例
にも行き着くのだと信じています。

そしてラカンはただ単に衒学的な哲学ではなく今正に目の前にいるクライエントさんのための実践的な臨床の知を提示しているとも思うのです。

2.本文

ラカンについて述べることが衒学的で臨床の知とは関係がないものだとは思わない。言語を使う精神分析学について考えることは俺たちが臨床家としての日常的な営みをすることと深く関係している。鏡像段階の獲得は発達の上で不可欠なものだし、超自我、父の名は人間理解に通じる。

ワロンの自我-他者論は他者の識別は幼児にとっては困難なことを示している。いわゆる「アハ」体験は同一の機制が働いていると考えることができる。

ラカンはそのような一般心理学的見地を演繹しつつフロイト的な視点から鏡像段階理論を展開している。

鏡像段階は、幼児が自己の鏡像を自己の像と認知するに至る生後18カ月以降の年齢段階を示すものとして定義される。(ゲゼルも参照のこと)

鏡像段階以前には幼児が自己の姿を統一性を以って認識できない前鏡像段階があり、それは外界の認知可能な6カ月目から始まる。鏡像段階を獲得するために主体は自己を疎外する同一性を認識しなければならない。

何故ならば、幼児にとって自他未分離な状態は心地よい状態で、鏡像段階を獲得することによって主体の経験する不快さはあるひとつ心像イマーゴを伴い、一生を通じて残るものになるからである。

内界-環界(外界)という概念によって説明することが可能である。鏡像を獲得する事自体不快感を伴う外界への接触の始まりと言い換えられる。前鏡像段階、イド対鏡像段階、非イド的なものという図式が成立する。

それはまた、夢の例示によって説明がなされている。第一にはまず、寸断された身体のイメージである。

分析の過程が進んでいくにつれてしばしば現れる身体のバラバラの象は前鏡像段階への退行である。

また「私の形成」(エクリ)である鏡像段階とイドとの対立は、塹壕で固めた野営地2つの中でそれぞれが身をもがく(本人の身体が分化する)夢に象徴されている。

前述シュレーバー症例では患者が人前で自慰に耽ることが報告されていたが、フロイトによればそれはまた口唇期に見られること自体が自己愛的満足として診断されていた。

エメの症例にはそこまでの退行は見られなかった。ただしシュレーバー症例を参照することにより、あるひとつの契機として働いていたと考えることは可能だろう。自己愛は対象愛に移行する過程で中間の様相として自己愛の現象を発見できる。

正常なリビドーの発達はそのように進んでいく。固着Fixierungが起こると、あるいは退行によって妨げられることにことによって内界は快であり、外界は不快である、という図式-前鏡像段階の状態に主体は閉じ込められることになると言えるだろう。

またしかし、この鏡像段階の獲得こそが「パラノイア性の自己疎外」の準備段階であり「孤立化過程」でもあると見られている。(エクリ)

塹壕の夢では、その外傷的な段階は防禦的工事を施した建造物の出現によって隠喩としてそれが示されていると言えるだろう。

ラカンがそれを換喩としてではなく隠喩であると綴ったのは、隠喩で書かれた文章は記号表現と記号内容の不一致がそこに見受けられるからであり、記号表現が何も意味を持たない上に、メッセージとしての表現と表現との関係が対等であるという点に集約されるだろう。

夢はまたひとつのテクストであり、そこからは「雪の肌」の表現に見受けられるような比喩の自由さが求められている。

家族の三角形の理論に言及していきたい。フロイトの「エディプスの三角形」の中ではまず、幼児にとっての最も原初的リビドーの対象は母親であると述べられている。

男根期に頂点に到達するこの時期について、ラカンは母親との双数的関係によってとらえられる「想像界」と呼びならわす。また、このような母親とだけとの関係についてではなく、父親をも含めた世界は「象徴界」と言われ、結局エディプス期は父親=象徴界=法の世界への同一視によって達成される。

そのような社会化、象徴界の過程の一時期とらえられるのだが、社会化が決して肯定的な意味を以って捉えられるのではないという事は内界-環界との対立に主体が出て行く事によって外傷を蒙るという鏡像段階の図式ともまた同様である。

すなわち「言語-法」の獲得により主体は自らを疎外していくのだと言えよう。社会化の過程の中で自我・他者を区別する必要に迫られることを追究したのはワロンも同様であり、ラカンとの類似点も多く指摘されている。

ワロンによれば、子どもは生後2〜3カ月までは周囲と一体であり、身辺の世話をしてくれる大人がいなければ自身も不在となり、2人遊びの可能になる7〜8カ月期を経て初めて「私」という言葉を正しく使うようになる。

丸山圭三郎「ソシュールを読む」岩波セミナーブックス2参照「デンシャ、デンシャ」と習い立ての単語を一生懸命呟いていては思いあぐねた様子で「ママ、デンシャって人間なの?それともお人形なの?」という3歳の女児を例示したい。

丸山は感覚=運動的知能から思考的な知能へと移行する象徴化過程を言語の意味論的な分節行為の中に示すが、ワロンの問いかけはより根源的である。

鏡像の自分は、自分から見る異なった複数よりも識別の分節化はより難しく、それが可能となるのは意識にらおいて自我Moiと他者l'Autreがほぼ同時に形成されるのを待たなければならないと述べられている。

その峻別はまた、「内なる他者」※前掲(身体・自我・社会/アンリ・ワロン)と呼ばれる社会的自我によって完成される、というのも第2の自我である内なる他者を通してまた他の個人「他者」に連絡を取っていくからである。

結局「内なる他者」とは現実には不在の自分の鏡像を想定した他者であり、また小児にとっては遊びの中の仲間意識を通して形成されていくものであるのだが、エディプス的な母親との双数的関係から小児を疎外して行く父親こそは大文字の他者Grand Autreである。

疎外され続けける主体はラカンによって、そもそもの初めにおいて空虚であり、何も持たないものとして定義される。フロイトによる、自己愛から自体愛を経て対象愛に至るまでの対象を持たない段階はphallus=空虚=penisである。
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「自分の身体で自分自ら満足している状態」(ナルシシズム入門)は口唇期に見られるおしゃぶりを代表とする状態であり、Sが欲望の対象を持つにはMの登場を待たなければならない。しかしその欲望はまたS=主体−M母親だけの単独の関係のみで成立するわけではない。

S→MはP父→S主体の矢印を以って初めて理解されうる。P父→M母の欲望の流れというメッセージをSが与えられる事によって、初めてP→Sのコミュニケーションが成立し、主体は母親への欲望を持つに至る。

そしてこの→(矢印)こそは記号表現シニファンである。すなわち、主体P→MとP→Sという2つのシニファンを受け取り、S→Mという欲望の流れを完成させる。

主体とは他者からの対話である。エクリ(他者)である父親の欲望を以って主体は欲望を持つに至るのだと言うことができる。

また、この場合にはPは現実の父親ではなく、父親によって象徴される父親の欲望であると理解する事ができる。従って、Pを「父−の−名」Noms-du-Pèreラカン思想の中核概念と表記する事ができる。

a'は大文字の他者l’Autreではなく小文字の他者l'autreである。そしてまた主体にとって自我の理想でもあり、現実の父親でも有るのだが、主体によって気付かれてはいない。

なぜ俺がラカンを書き続けるのかというと以前描いたラカンのシェーマ図式Lまで引っ張り出してきて、ラカンを俺の中で完全に葬り去りたいから。ラカンを書き作ることによってラカンを自らの歴史としてしてきた過去をしっかりと自分のものとしながらも訣別したいというアンビバレンツな感情。

母親と主体との関係、S→Mの欲望も主体には気付かれていない。それは象徴的symboliqueなものであり、この三者の関係を象徴界の三角形と呼ぶ。主体はこの象徴界の中では何にも拠り所のない空虚な存在だと言える。

それは先に述べた記号表現シニファンの記号内容シニフィエに対する優位という概念を使います「父親の隠喩」という運動公式によっても説明がなされている。

運動公式、というのはそれぞれの要素がまた他の要素に対して運動を要請する、という点においてその言葉が使用されるからである。
今日はここまで。ここからが少し煩瑣になる。

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