ひなたあきらのおけまる公認心理師たん

新制度公認心理師の検証をしばらく続け、この制度がよりよいものになるための問題提起を行いつつ、カウンセリングの在り方について考え、最新の情報提供を行っていきます。ほか心理学全般についての考察も進めていきます ブログ運営者:ひなたあきら メールアドレスhimata0630★gmail.com(★を@に変えてください。)

カテゴリ: 心理学

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photo&lyric by sora (@Skylit_Blue)
朝から虹を見つけた。ただそれだけのことで心の隅から隅まで爽やかな風がそよいだ。


◯ ジャック・ラカンへの挽歌

1.序

ついこの間からラカンばかり書いています。ラカンは臨床心理学を学び始めたばかりの僕にとっては言語という営みをカウンセリングの中で行う最大の敵でもあり、苦しいながらも理解しなければならない最大の味方になるとも思っていました。それをきちんと整理し尽くして僕は次のステップに進みたいと思っています。

この強敵を消化し尽くしていかなければならないというのは臨床の知を理解するという義務感からなのでしょうか。精神分析初期には決して扱ってはならなかった精神病圏を自由闊達に飛び回るラカンやビオンから遡るときっと境界例
にも行き着くのだと信じています。

そしてラカンはただ単に衒学的な哲学ではなく今正に目の前にいるクライエントさんのための実践的な臨床の知を提示しているとも思うのです。

2.本文

ラカンについて述べることが衒学的で臨床の知とは関係がないものだとは思わない。言語を使う精神分析学について考えることは俺たちが臨床家としての日常的な営みをすることと深く関係している。鏡像段階の獲得は発達の上で不可欠なものだし、超自我、父の名は人間理解に通じる。

ワロンの自我-他者論は他者の識別は幼児にとっては困難なことを示している。いわゆる「アハ」体験は同一の機制が働いていると考えることができる。

ラカンはそのような一般心理学的見地を演繹しつつフロイト的な視点から鏡像段階理論を展開している。

鏡像段階は、幼児が自己の鏡像を自己の像と認知するに至る生後18カ月以降の年齢段階を示すものとして定義される。(ゲゼルも参照のこと)

鏡像段階以前には幼児が自己の姿を統一性を以って認識できない前鏡像段階があり、それは外界の認知可能な6カ月目から始まる。鏡像段階を獲得するために主体は自己を疎外する同一性を認識しなければならない。

何故ならば、幼児にとって自他未分離な状態は心地よい状態で、鏡像段階を獲得することによって主体の経験する不快さはあるひとつ心像イマーゴを伴い、一生を通じて残るものになるからである。

内界-環界(外界)という概念によって説明することが可能である。鏡像を獲得する事自体不快感を伴う外界への接触の始まりと言い換えられる。前鏡像段階、イド対鏡像段階、非イド的なものという図式が成立する。

それはまた、夢の例示によって説明がなされている。第一にはまず、寸断された身体のイメージである。

分析の過程が進んでいくにつれてしばしば現れる身体のバラバラの象は前鏡像段階への退行である。

また「私の形成」(エクリ)である鏡像段階とイドとの対立は、塹壕で固めた野営地2つの中でそれぞれが身をもがく(本人の身体が分化する)夢に象徴されている。

前述シュレーバー症例では患者が人前で自慰に耽ることが報告されていたが、フロイトによればそれはまた口唇期に見られること自体が自己愛的満足として診断されていた。

エメの症例にはそこまでの退行は見られなかった。ただしシュレーバー症例を参照することにより、あるひとつの契機として働いていたと考えることは可能だろう。自己愛は対象愛に移行する過程で中間の様相として自己愛の現象を発見できる。

正常なリビドーの発達はそのように進んでいく。固着Fixierungが起こると、あるいは退行によって妨げられることにことによって内界は快であり、外界は不快である、という図式-前鏡像段階の状態に主体は閉じ込められることになると言えるだろう。

またしかし、この鏡像段階の獲得こそが「パラノイア性の自己疎外」の準備段階であり「孤立化過程」でもあると見られている。(エクリ)

塹壕の夢では、その外傷的な段階は防禦的工事を施した建造物の出現によって隠喩としてそれが示されていると言えるだろう。

ラカンがそれを換喩としてではなく隠喩であると綴ったのは、隠喩で書かれた文章は記号表現と記号内容の不一致がそこに見受けられるからであり、記号表現が何も意味を持たない上に、メッセージとしての表現と表現との関係が対等であるという点に集約されるだろう。

夢はまたひとつのテクストであり、そこからは「雪の肌」の表現に見受けられるような比喩の自由さが求められている。

家族の三角形の理論に言及していきたい。フロイトの「エディプスの三角形」の中ではまず、幼児にとっての最も原初的リビドーの対象は母親であると述べられている。

男根期に頂点に到達するこの時期について、ラカンは母親との双数的関係によってとらえられる「想像界」と呼びならわす。また、このような母親とだけとの関係についてではなく、父親をも含めた世界は「象徴界」と言われ、結局エディプス期は父親=象徴界=法の世界への同一視によって達成される。

そのような社会化、象徴界の過程の一時期とらえられるのだが、社会化が決して肯定的な意味を以って捉えられるのではないという事は内界-環界との対立に主体が出て行く事によって外傷を蒙るという鏡像段階の図式ともまた同様である。

すなわち「言語-法」の獲得により主体は自らを疎外していくのだと言えよう。社会化の過程の中で自我・他者を区別する必要に迫られることを追究したのはワロンも同様であり、ラカンとの類似点も多く指摘されている。

ワロンによれば、子どもは生後2〜3カ月までは周囲と一体であり、身辺の世話をしてくれる大人がいなければ自身も不在となり、2人遊びの可能になる7〜8カ月期を経て初めて「私」という言葉を正しく使うようになる。

丸山圭三郎「ソシュールを読む」岩波セミナーブックス2参照「デンシャ、デンシャ」と習い立ての単語を一生懸命呟いていては思いあぐねた様子で「ママ、デンシャって人間なの?それともお人形なの?」という3歳の女児を例示したい。

丸山は感覚=運動的知能から思考的な知能へと移行する象徴化過程を言語の意味論的な分節行為の中に示すが、ワロンの問いかけはより根源的である。

鏡像の自分は、自分から見る異なった複数よりも識別の分節化はより難しく、それが可能となるのは意識にらおいて自我Moiと他者l'Autreがほぼ同時に形成されるのを待たなければならないと述べられている。

その峻別はまた、「内なる他者」※前掲(身体・自我・社会/アンリ・ワロン)と呼ばれる社会的自我によって完成される、というのも第2の自我である内なる他者を通してまた他の個人「他者」に連絡を取っていくからである。

結局「内なる他者」とは現実には不在の自分の鏡像を想定した他者であり、また小児にとっては遊びの中の仲間意識を通して形成されていくものであるのだが、エディプス的な母親との双数的関係から小児を疎外して行く父親こそは大文字の他者Grand Autreである。

疎外され続けける主体はラカンによって、そもそもの初めにおいて空虚であり、何も持たないものとして定義される。フロイトによる、自己愛から自体愛を経て対象愛に至るまでの対象を持たない段階はphallus=空虚=penisである。
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「自分の身体で自分自ら満足している状態」(ナルシシズム入門)は口唇期に見られるおしゃぶりを代表とする状態であり、Sが欲望の対象を持つにはMの登場を待たなければならない。しかしその欲望はまたS=主体−M母親だけの単独の関係のみで成立するわけではない。

S→MはP父→S主体の矢印を以って初めて理解されうる。P父→M母の欲望の流れというメッセージをSが与えられる事によって、初めてP→Sのコミュニケーションが成立し、主体は母親への欲望を持つに至る。

そしてこの→(矢印)こそは記号表現シニファンである。すなわち、主体P→MとP→Sという2つのシニファンを受け取り、S→Mという欲望の流れを完成させる。

主体とは他者からの対話である。エクリ(他者)である父親の欲望を以って主体は欲望を持つに至るのだと言うことができる。

また、この場合にはPは現実の父親ではなく、父親によって象徴される父親の欲望であると理解する事ができる。従って、Pを「父−の−名」Noms-du-Pèreラカン思想の中核概念と表記する事ができる。

a'は大文字の他者l’Autreではなく小文字の他者l'autreである。そしてまた主体にとって自我の理想でもあり、現実の父親でも有るのだが、主体によって気付かれてはいない。

なぜ俺がラカンを書き続けるのかというと以前描いたラカンのシェーマ図式Lまで引っ張り出してきて、ラカンを俺の中で完全に葬り去りたいから。ラカンを書き作ることによってラカンを自らの歴史としてしてきた過去をしっかりと自分のものとしながらも訣別したいというアンビバレンツな感情。

母親と主体との関係、S→Mの欲望も主体には気付かれていない。それは象徴的symboliqueなものであり、この三者の関係を象徴界の三角形と呼ぶ。主体はこの象徴界の中では何にも拠り所のない空虚な存在だと言える。

それは先に述べた記号表現シニファンの記号内容シニフィエに対する優位という概念を使います「父親の隠喩」という運動公式によっても説明がなされている。

運動公式、というのはそれぞれの要素がまた他の要素に対して運動を要請する、という点においてその言葉が使用されるからである。
今日はここまで。ここからが少し煩瑣になる。

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おはようTwitter

きょうも
くりかえす喜憂と共に前へ ໒꒱⋆゚


◯ フランス構造主義精神分析学者ジャック・ラカン

つらつらと精神分析ばかりtweetしているのは学生たちの興味が精神分析にあることを知っているから。過食、摂食障害、生活習慣病にすら精神分析は有益な示唆を与えてくれる。精神分析的な知見がゼロであったならばCBTは成立しなかった。Watsonは誰よりも熱心なフロイトの読者だった。

俺がつい最近境界例と対象関係論にハマったのは院生たちに聞かれて負けず嫌いなのでどんどん遡って対象関係論学者たちの本を読んでいたからだけでなく、境界例に心理職としてこれまで接してきて治すことにだけ視点が集中していたのが、境界例がなぜ成立してきたのかを改めて知り、衝撃的だったから。

もちろん境界例の治療には弁証法的行動療法が第一選択肢、それからEMDRやブレインスポッティング、ソマティックな視点を取り入れつつも必ず精神分析的知見は必要とわかっていたが弁証法的行動療法or精神分析の専門家に任せればいいと勝手に思い込んでいたが俺の住むこの狭い地域できちんとした精神療法家はほとんどいない。

マスターソンによれば母親は子どもの分離個体化に称賛を惜しみなく与えることが効果的。分離個体化に対して称賛を控えてしまうと見捨てられ感や抑うつ感情が生じる。俺はこの感覚が境界例の源流となっていると感じる。母か子どもの退行的なしがみつきに対して抑うつから自己を防衛する。

この前あたりの理解は世間で言われる「ほどよい母親」の理解とは異なる。ほどよい母親は全能ではないというのが一般的な理解。よい母親は子どもを退行させ、しがみつき行動には報酬を与える。だからこそ退行的で病的な防衛機制が成立する。子どもは抑うつ的にならない。  

その代わりに子どもが獲得するのは退行的かつ病的な防衛規制であり、回避、否認、しがみつき、行動化、分裂、投影が生じる。報酬を与える対象的対象関係の一部(恐らくRORU)として分裂した形で与えられる。分裂した対象関係単位の一部として撤去型対象単位から退行した防衛機制と結び付く。

抑うつの防衛は偽自己の基盤となっている。WORUもRORUも子どもにとって真の自己ではない。このマスターソンの記述は俺にとっては誤解でなければsplittingの萌芽のように思える。偽自己から真の自己を発生させるためには母親からの分離という課題を達成させなければならない。

真の自己を隠すため、偽自己を発達させるのではなく、母親の鏡像化によって達成させるこのプロセスはラカンの言う鏡像段階とは明らかに違うように俺は思う。自らの存在をそれと認識する鏡像段階理論と違い、より発達の初期に起こるものだからである。

マスターソンの対象関係理論に関する理解は、かならず幼児が病的な発達段階を辿ることを想定している。これは対し関係理論の中核をなしている概念。見捨てられ抑うつから真の自己は発生する。そうすると偽自己も発達するという矛盾を常に孕んでいると俺は思う。

したがって偽自己は発達、病的防衛機構を発達させる。このマスターソンの理解が境界例概念の源になっているように思える。マスターソンが挙げるのはウィニコットの偽自己の概念。ウィニコットはかなり極端な例を挙げている。

マスターソンによれば、自発性がなく服従や模倣が中心的活動、想像力も象徴機能も用いない偽自己の例を挙げている。ピアジェの言う象徴的思考期はちょうど2〜4歳となっているのは偶然かもしれない。ウィニコットは「かのような」as if personalityが偽自己だと理解する。

新宮一成先生はクラインとラカンを連続性のあるものとして見ているのだけれどもそれは間違いではないと思う。ビオンが統合失調症を診ていたようにラカンはパラノイア症例「エメ」で先進的な試みを行っていた。当日のフランスではパラノイアの定義が曖昧だった。1932年。

当時のフランスでは気質的要因として妄想がパラノイアには発生していると考えられていた。ちなみにこの辺りは全部俺の勝手な解釈だ。統合失調症の概念も不分明。ラカンはヤスパースの「了解」概念とフロイトの超自我概念をパラノイア理解に使おうとするアクロバティックな試みをしていた。 

ラカンはエメの症例を通じ、パラノイアは心因によって起こると解釈した。フロイトの「否認」はラカン解釈の鍵になる。そのdenial概念は後にソシュールを通じ言語学にも融合する。ラカンほど家族関係に着目した分析家もいなかったという理解もできる。

エメの症例は1950年代にも引き継がれていく。エメは女優Z夫人に近づいていくがZ夫人は多くのファンの1人だろうと手馴れて断る。ところがエメはナイフを出してZ夫人を切りつける。パラノイアというのは現在ならば妄想性障害となるのだろうか。Z夫人は何年も前からエメの悪口を言い、エメを窮地に立たせていた。そうエメは信じていた。

Z夫人と作家P.Bとのスキャンダル。P.Bもまたエメの噂を流していた。Z夫人は手の怪我で済んだ。エメはサンラザール刑務所「誇大妄想と恋愛妄想的気質を伴い、解釈に基づく系統的迫害妄想に罹患」という診断名、俺はこの診断名はむしろドイツ的などこまでも長い連鎖のように感じた。

ラカンのエメに関する論文は1年半に及ぶエメとの対話によって成り立っている。エメはドルドーニュの貧しい農家で生まれ育った。17歳時妄想エピソード、18歳で鉄道会社に首席採用。姉夫婦の住む都会へ移住、プラトニックな恋愛をした。 

エメの同僚、C嬢は没落貴族の末裔にしてエメの親友。エメが23歳まで親交を結ぶ。C嬢はエメに権威的に常に振る舞っていた。エメは結婚をしてC嬢の頸城を逃れる。エメは結婚には不向きだろうと周囲から見られていた。エメは多才、芸術、文化、大学進学にも興味を示すが夫は無関心。
 
俺はエメの症例を語ることによって俺自身も言説を語っている。再び未亡人になった姉を招き入れて同居。姉がことごとくエメの家事に批判をする。ラカンがエメの病を心因と見たのはこの辺りにあったのだろうか。妊娠でエメが不安定になったのはエメ28歳時。

この時にエメは多分発症していた。同僚からのいわれのない悪口、新聞のあてこすり。奔逸した行動。2回目の30歳妊娠時には子が生されて溺愛したエメは車がそばを通りかかるだけでトラブル。フランスから渡米するための書類偽造。作家になり子を大使にするという誇大妄想。

解釈妄想病の診断の下6カ月入院。妄想は一部消失、パリの職場へ単身もどる。バカロレア(大学入試)試験には3回不合格、単身のエメはどんどん家族と疎遠に。息子を取り戻す努力虚しくここでZ夫人やP.Bへの妄想に取り憑かれる。膨大な量の手記を出版社に送り不採用。出版社員を殴り付ける。

ここまでが長い長い前置き。20日間の拘留でエメは罪の意識に苛まされる。彼女は罰せられなければならなかったと被罰妄想、迫害妄想に陥る。リビドーは罰の形で供給された。ラカンはフロイトの性欲理論を持ち出し、エメの性的エネルギーの備給が行われたことをシュレーバー症例と対比する。 

シュレーバーは法曹界で高い地位を占めた。シュレーバーはおそらく性的同一性に当時のウィーンで悩みながら救済妄想を持つ。シュレーバーは同性を愛することを否認する。「私は彼を愛さない」認めたくない感情、例えば「確かに母を夢の中で見なかった」denial否認機制。行き着く「誰も愛さない」

私しか愛さないという自家撞着になっていく。対象リビドーは自我リビドーに転換。

フロイトのナルシシズム入門の引用「自我リビドーと対象リビドーの間には一つの対立があると見ている。一方が余計に使われれば他方がそれだけ減るのである」

エメのC嬢に対する恋着は「私は彼女を愛する」という否定denial 機制によって「私は彼女を憎む」に転化される。その理由は「彼女が私を追いかけるから」という迫害、追跡妄想。エメの抑圧された同性愛リビドーはシュレーバーと相通じる。被恋妄想として出現することもある。

「私は彼女を愛する」はエメによって否定機制denialで「私は彼女を憎む」に転化される。その理由は「彼女が私を追いかけるから」迫害妄想、追跡妄想は抑圧された同性愛リビドー。シュレーバー症例と同様。行き場のない欲望。迫害、追跡妄想は被恋妄想となる。

19世期ウィーンでも1932年のフランスでも公に同性愛は認められていなかったと思う。抑圧されていた。「私(男)は彼ではなく彼女を愛している」という対象者の性を転換させる。迫害妄想と同様、主動作主はあくまでも相手側。パラノイア性精神病は単独で出現することは珍しい。迫害、追跡妄想。

多くのパラノイア性精神病がそうであるように病変は単独で現れることはなく、迫害妄想、追跡妄想、そしてエメの「彼らは恋人ではありませんがあたかもそのように振る舞います」俺はこのエメの発言を転換及び否認の防衛機制と考える。パラノイアは自罰的だ。

エメとラカンの会話を抜き出す。
「何故あなたは子どもが脅かされると感じたのか」
「私を罰するためです」
「けれども何故?」
「私が自分の使命を果たさなかったからです」そして次の瞬間「私の敵が私の使命に脅かされると感じたからです」と述べるエメ。

上記エメの2つの発言は明らかに矛盾している。迫害妄想の理由付け。だからエメは罰せられると感じたのだろう。現代精神医学では妄想性障害と見做されるのだろうか?DSM-5のディメンションシステムに分類できないような了解可能で不可能なエメの発言。ラカンは「文法的なやり方による分析」を試みる。

罰せられると感じたエメは自罰性パラノイアと定義される。倫理観が迫害妄想と一致する。「文法的やり方による分析」はどのようにして「文法的」と感じられるのか?俺はこの言説をラカンの弁証法だと思う。denialは動詞の逆転。私は彼を愛する→私は彼を憎む

主語同士も干渉し合う。「彼は私を憎んでいる」(追跡妄想)

ここからがラカンらしくなる。「彼が愛しているのは彼女だ」(それは私を愛しているのは彼女だからだ)(被恋妄想)いずれの場合にはにもソシュールの「意味するもの」(=記号表現シニファン)と意味されるもの(=記号内容シニフィエ)の二項対立に倣らう。

知覚するもの⇔されるものの対応が想定されている。知覚するもの(=主体)こそは無意識であり、知覚されるものは容易に変ずることのない現実リアリテ。知覚するもの、≒記号表現=意味するものという事実の中に主体=空虚ファルスという図式が見てとれる。

主体=ファルスはラカンの思想の中に一貫して立ち現れている。そこにソシュールが礎となっている。言語学的観点から見た精神分析理論にはソシュールを抜いて語ることはできない。

ソシュール以前の言語学は「通時的」歴史的な観点からのみ語られていた。「共時的」概念はソシュールによってもたらされた。ソシュールにとってはある国で語られていたA言語、また別の国で語られていたB言語も全く同じ地平に並べられる。

言語間では差異のみが問題であり、その差異体系を明確にするために言語全体をラングとパロールに大別する。ラングは言語の語られる場所に特有の社会的な言語的背景や慣習を含むもの。パロールは個々の発話者が頭の中で言語以前の概念が実際に言語となる過程を示す。

言語間では差異のみが問題であり、その差異体系を明確にするために言語全体をラングとパロールに大別する。ラングは言語の語られる場所に特有の社会的な言語的背景や慣習を含むもの。パロールは個々の発話者が頭の中で言語以前の概念が実際に言語となる過程を示す。

すなわち、それは単語の個々に特有の発言の結びつき方(音韻)やそれを細分化した音素。さらに突き詰めると全体として表現される意味の問題、意味論になる。意味の問題を解明することはパロールの解明となる。実在としてのメッセージこそがシニファン。その表現の以前に仮定仮定される前概念。

その前概念が記号内容=シニフィエ。結局ソシュールはパロールの問題に行き着くことはできず、その解明の手がかりとなるシニファン、シニフィエの概念を提唱するに留まってしまった。「言語学でなしうる事の大きな虚しさがわかった」とソシュールは一冊の著作も残さずこの世を去る。

ソシュールがパロールの追究について大きな糸口とした式はS/sであり、S記号表現シニファンがs記号内容シニフィエの上にあることを示している。この図式を取り入れたラディカルなフロイトの解釈こそがラカンの真髄と言える。

ラカンはフロイトの「夢判断」は言語学的な観念を導入したものであると解釈している。夢判断、そして「精神分析学入門」第2部もあるひとつのものはまた別の意味の象徴であるという図式は、パロールの分節化された、シニファン対シニフィエの構造とよく似ている。

何度も同じ記号表現がテクスト(=夢)の中に出現してくる。その国語(=ラング=夢の法則)が再構築可能になるという点で、ラカンはフロイトを優れた言語学者として評価している。(エクリⅠ)

夢の諸解釈について言語学的な観点から圧縮(Verdichtung)についてラカンは言及する。圧縮の作用は、植物の夢に示されている。潜在内容である夢思想Traumgededankenが顕在内容であるTrauminhaltに凝縮されていくというプロセス。

この圧縮の作用についてラカンは換喩métonymicと隠喩métaphoreの概念を用いて説明を行っている。換喩は船のことを示すのに「30枚の帆」と述べる比喩の方法。あるひとつの帆船のことを示しており、小舟や他の船のことを示すのではない。
(夢判断S.Freud.p363夢の作業「植物学研究の夢」)

明確な船の比喩は対象を特定する。隠喩は喩えれば「雪の肌」「林檎の頬」換喩には科学論文に示されるようなシニファンとシニフィエの厳密な一対一対応が要求される。つまりひとつの表現に対してそれが指し示す内容はあくまでひとつでなければならない。

隠喩の場合には、必ずしもひとつのシニフィエに対してシニファンが孫さんする必要はない。この比喩の方法に代表されるのは例えば詩。読み手は必ずしもシニファンとシニフィエの厳密な対応を要求されない自由な裁量を与えられている。

フロイトの述べる夢内容は多くの夢思想が圧縮したものとして示されている。隠喩的存在として存在として圧縮定義されうる。樹/🌴
これはラカンが言うように誤解を招きやすい図式でもある。ソシュールによるS/sの図式。このふたつはありがちな誤解である。

「樹」が実際の樹を示しているとは限らない。tree、Baum、arbre対応も可能。トイレはその図式がよく現れている。男性/🚪女性/🚪
S記号表現シニファン/s記号内容シニフィエ、このソシュールの原型はラカンによって打ち壊されていく。

ラカンにとってはシニファンはシニフィエに対して徹底的な優位を占めていた。夢の顕在内容(夢内容)であるシニフィエに対し、シニファンである夢の潜在内容(夢思想)は広大な広がりを持ち。その象徴性も豊かである。

例えば強迫神経症に見られるような反復強迫はまた、シニファンの無限の洪水であり、それは象徴の連鎖(エクリⅠ)であるとも言われていた。夢の置き換えについて見てみる。「夢に現れる象徴の圧倒的多数は性的な象徴です。」

「表現される内容の数は少ないのに、それの象徴は並々ならず多い」(精神分析入門)例えばシニフィエである男性性器を象徴するシニファンとしてしてはざっとあげられているだけで、ステッキ、傘、棒、木、メス、吊りランプ、飛行船等があるだろう。

夢の中の置き換えのシステムはまた、次の様に解釈される。大文字のSはシニファン(記号表現)を示す。(※精神分析学入門は第二部、夢-第10講、夢の象徴的表現p203)

Ⅰ S |s
Ⅱ S |ss |
Ⅲ S |s |S s |S
大文字のSはシニファン記号表現を示し、小文字のsはシニフィエを示す。Ⅰにおいては単純なdenotation(外示)、ごく普通の言語機能を持つ場合である。※

ラカンはこの概念、denotation、connotationの定義を著作、セミネールの中で1度も行ったことはないが、明らかにその体系を意識したと思われる発言は随所に見受けられる。

この概念は言語学の領域を超えて記号学の分野で誕生した。connotationは「メタ」と同義であるがラカンは「メタ言語はどこにもない」と明言する。初めてこの概念を広めたのは記号学者ロラン・バルトである。

シニファンとして定置され、その上にまたまた新しいシニフィエsが出現し、さらにその全体をひとつのシニフィエとするシニファンSが出現している。

この構造はdenotationに対しconnotation(共示)として示される。シニファン、シニフィエ結合であるdenotationが、より高次のシニファンとして機能する状態である。

「精神分析学入門」では「ステッキ」及び「傘」の群は形状的に類似しているという点によりペニス象徴するシニファンであるとして布置された。また、第2の群中の「メス」は体内に侵入して傷付けるという点で、吊りランプは伸縮するという点で、飛行船は重力に反して直立するという点でペニスを象徴する。すなわち、個々のシニフィエに対し多くのシニファンが対応させられるというラカンの特有の隠喩の概念である。

そこには結局Ⅲに見られるように、無限のシニファンの連鎖により他のシニファンの連鎖によって他のシニファンがそこで欠落したり省略されるということを示している。

以上のような言語学的観点を踏まえた上で、ラカンの理論の中枢を成すとある意味で言えるであろう「鏡像段階理論」「主体」と「他者」の概念について考察を深めていきたい。

鏡像段階理論/一般心理学でも認知の発達に伴う「鏡像」を自己の姿として認識す過程がフロイトの自我理論によって大きく補強された。

幼児が自己の鏡像を自己の像と認知するという、極めて明証性を以って定義することが鏡像段階である。発達心理学者らがこれについて多く言及している。

ワロン(アンリ・ワロン・「身体・自我・社会」ミネルヴァ書房)は5歳の女児が自分の姿を姉妹の像と間違えた例から自我の像の識別は異なった複数の他者の識別よりも困難であることを述べている。
(続くかどうかはわからない)

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photo&lyric by sora (@Skylit_Blue)
ほんの少し
誰かの心を想像してみた。

ほんの少し
やさしい未来が広がった。


◯ 公認心理師・臨床心理士手取りを増やす方法

1.序

給料が安い安いと言われる心理職。どうせなら手取りを増やす算段をしてみましょう。しかも合法的にです。  

2.具体的方法

⑴ 医療領域

さて、クリニックには多くの患者さんが来ます。待合室があり、今日は少し長めに時間を待たなければならない。あるいは終わったあと患者さんの時間が空いている。さて、そんな時には院長命でMMPIをやってもらうことがありました。診療保険点数280点、実施すれば病院、クリニックには2800円入ります。しかも心理職が採点して解釈までつければ実際の治療にも役立ちます。

なんということはない人だなあと思っていたら実は精神病圏の人だったということで治療方針が変わったこともあります。というわけで病院も潤って患者さんのためにもなるわけです。

そしてそれを僕はホームワークとして持ち帰り、クリニックの院長と交渉して、Ⅰ件千円で請負って月5万円ほどを得ていました。実話です。

さて、クリニックで何かもっと患者さんのサービになる方法はないのか?僕から提案したのはペアレントトレーニングです。診察が終わった夕方の時間に親だけを集めて集団精神療法を行いました。グレーゾーンのような気もしますがやはりクリニックは潤いました。以下略。集団認知行動療法もできます。

⑵ フリーの心理職

ア カウンセリング会社に雇用される

完全フリーなので特に兼業制限はありません。インターネットを見てみましょう。あちこちの事業所でオンラインカウンセリング、電話カウンセリングを行う会社があります。公認心理師、臨床心理士の有資格者ばかりでなく、学部卒の人や心理専門職でない人もカウンセラーになっている場合もあります。「有資格者募集中」と書いている場合もあります。手取り1時間3千円として週5回やれば月6万円の儲けになります。

カウンセリングにかかりたくても遠隔地、仕事が多忙など隠れたメンタルヘルスのニーズを掘り出すわけなのできちんと人のためになっています。

イ 自分で個人事業主としてカウンセリング事業を立ち上げる

これは少し高等テクニックかもしれませんがやっている人たちは多くいます。

ホームページを立ち上げます。その際GoogleサーチコンソールやGoogleアナリティクスを使ってSEO対策をします。

いったい何のことやらと思うかもしれませんが要するにホームページで検索した時の順位を上げるようにするわけです。外部の業者に頼むとかなりお金がかかるので一生賢明調べましょう。

なるべくニッチなところを攻めましょう。ニッチかつニーズが多い相談内容を探すのは大変ですが頑張ります。土日はメンタルヘルス無料講演会をやって、僕のようにやくたいもないブログを立ち上げたりメルマガを出して宣伝するのも一つの手段です。あと紙媒体でないkindle版なら手軽に出版できます。

「本もあるよ、講演もやってるよ、みんなの役に立つよ」というのは大きな魅力です。ただしウソをついてはいけません。「何年も引きこもっていた子どもを必ず学校に行かせる方法」があれば非常に魅力的だとは思いますが、そんな方法は誰にも思いつかないでしょう。  

ちな僕もこのブログを日本学術会議からぜひ出版させていただきたいというオファーがあったら考えてやってもいいとは思っていますが、今のところ何もレスポンスはないです。日本の研究機関の水準について憂えています。

3.結語

とまあ思いつくことをつらつらと書いてみたのですが、今文科省や自治体でSNSカウンセリングをやっています。昔メールカウンセリング会社と業務委託契約をしてそこそこのお小遣いにはなったのですが、あれもやりようによってはもっときちんと収益になったのかもしれません。

本稿は、あくまでも隠れたメンタルヘルスのニーズやカウンセリングを受けたい人たちの力になりなりながら自分の収入UPにつなげることが目的です。間違っても儲け主義一辺倒になってしまったらその下心は必ずクライエントさんに見抜かれてしまいます。ほかにも方法はたくさんあると思いますので頑張ってみてください。苦労して取った資格と実務経験は大きな武器になると思います。

(おまけ)

僕:いつも思うけど本当にお前男っ気がないな
看護師お嬢様:いつも思うけど本当にアンタ口が悪いよね
僕:いや、どんな女でもとりま、もうちょい努力してる感出してオーラ漂わせれば男寄ってくるぞ
お嬢:ワタシ面倒なのキライなの
僕:え
お嬢:本院にいた時は楽しかったのよ。女友だち4人ぐらいいて毎週アントラーズの試合観に行ったりどっか遊びに出かけて楽しかった
僕:男入ってないじゃん
お嬢:たまたまその中に男友だち混じっててもいいけどさ、恋愛だとそのために電話したりLINEに時間取られたりとか面倒じゃん
僕:やる気がないだけか
お嬢:失礼ね。ワタシも女として生まれたからにはちゃんと結婚して子ども作って、旦那と一緒に暮らして、っていう世間のみんながやっている苦行に耐えなくちゃいけないっていう気持ちはあるワケよ。周りもみんな結婚してくから遊び友だちいなくなっていくし
僕:…
お嬢:でもさ、相手の男にしても子どもにしても自分の考えたようには行かないワケじゃん、はあ、面倒だわあ。今はすごく楽だけど修行って必要だと思うの。このままこれが一生続けばいいのになあ
僕:わかった。やっぱりお前一生独身でいろ
(実話)


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photo&lyric by sora (@Skylit_Blue)
変えたい明日があって、
なかなか叶わない今日があって、
それでも迎えにゆきたい未来がある。
 

※ 今日はsoraさんのウクレレの音もお借りしました。お楽しみください。

◯ 公認心理師養成大学・大学院の窮状


1.序

今回の取材対象は養成大学・大学院ですが、いつものようにやたらめったら電凸をするのではなく、1つの大学に絞って取材しました。というのもどこの大学でも院でもコロナ対応に大わらわで多忙だと思い、短めにインタビューを切り上げました。たまたま好意的に答えてくれたので助かりました。(2020.10.7現在)

2.A大学・大学院の実情

A大学との約束で「名前を出さないで」ということでブログに書く許可をもらいました。

僕:A大学さんの公認心理師養成課程はどうですか?
A大学:他の学部学科もそうですが、オンラインでの授業が基本ですね。ただし心理だと実験や実習だけは学校に来てもらって、でも時間差で来てもらうという事にしています。ケースバイケースですね。学外実習は学内でやるようにしたりとか。
僕:学生さんたちや教員もオンラインだと大変ですね。レポートの多さに悲鳴を上げている学生さんも多いでしょう。採点する側も大変ですね。それでもGPAを取り入れている?
A大:GPAはやっています。そうですね。ただ、オンラインだと電車移動をしなくてもいいので感染の危険が減って安心だという声も出ています。

3.学生の声

生の学部生、院生の声を聞くことがあります。オンライン授業は課題が多すぎて大変、1回の授業にレポート1〜2枚を書かなければいけない、したがって以前は楽勝科目と言われていた教室の科目がそうではなくなってきています。学部生の基礎心理、統計など出席が義務づけられている授業は数学などが苦手でも課題を出さなければならない。

また、オンラインで今まであまり指導を受けられなかった学生さんが卒論、修論を進めなければならず四苦八苦している、にもかかわらず課題が山のようにオンラインで出てきて大変厳しい状態になっているとも聞きます。

4.各大学の実情

各大学は入試段階から従来の入試形態が取れなくなって来ています。従前なら面接を重視していたAO入試はオンライン、Zoomで行うようになってきました。

社会人編入はこれまで論文必須で会場で60分〜120分の論文を書かなければならなかったのが郵送やメール添付で済むようになりました。

オンライン環境が整っていない学生のために補助金を出したり、アルバイトで生計を立てていた学生に補助金を出している大学もあります。

図書館は予約制で入れるようにして、入館したとしても1時間で出なくてはならないとルールを定めている大学もあります。

こういったさまざまな措置に対して不安をいだく学生のメンタルケアのためにオンラインでカウンセリングを提供もしています。with covid-19で学部も院も心理だけでなく様変わりしてしまったのだと強く感じています。

(おまけ)

僕:調子わりい。から仕事サボって帰宅した。帰ってきたら転んでガラス割った。家の中すげえ散らかってるから転んだのかと思ったけど、いつも散らかってるからそうでもない
みおみん:病院行ってきなよ
僕:わかった
(帰宅)
み:どう?
僕:めまい。世界内での俺の存在感が不安定で太陽が黄色かったからって言われた。マロニエの木の下に行くといいって
み:せっかく心配してやってんのに!
僕:みおみんそう言えば院の課題とか大変じゃない?
み:バイトもあるから朝起きて朝勉してるぬ
僕:えらいぬ。修論は?
み:メンブレるから聞かないで。デリカシーもないしギャグ面白くないし相手するの優しいワタシだけだからもっと感謝して。ちゃんと食べて早く寝てゆっくり休むのよ
僕:ゔゔ、ありがどぬ。みおみんやざじい
(夜中)
み:またくだらないtweetばかりして!
僕:はい、寝ます
(早朝)
み:またわけのわからないtweetばかりして!そんなヒマがあったらもうちょっと休んでなさい!
僕:はい。ごめんなさい

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photo&lyric by sora (@Skylit_Blue)
掴めそうな煌めく未来。


◯ 公認心理師りゆさんの「知の輸血」

※ 序(ひなた記載)

FFの方で精神分析に詳しく、対象関係論などにいろいろとコメントをいただいている、りゆさん
りゆ (臨床心理士・公認心理師。本大好きっ!!)@iriko_riyu
にDMで寄稿をしていただきました。


※ ちなみに奥様のアーティストninaさんnina@Hoshineko_nina

りゆさんのtweetを見るとフェレット好き、とても心優しい方とお見受けしています。

フェレットのことを「本」と書いてあったので誤記ではないか、また写真にはダックスフンドもいるのでそのことについて聞いたところ

「あ、あと、ダックスフンドのこっこは、今年5月、15歳半で亡くなりました。故・こっこも加えて頂けますと幸いです。フェレットは、本当は「匹」なんですが、YouTubeの「イタチは麺類」というチャンネルのファンでして、そこのフェレット飼い主さんが、4匹いるフェレットにみんな麺類の名前を付けておられるので、パクリです。通じるひとには通じますが、「匹」のほうが無難でしょうか?^^」とのことでした。

1.自己紹介・現況

中学生からの幼馴染の妻とフェレット2本と暮らしています。学生相談や非常勤講師、行政(生活保護課心理ケア係、自殺対策係)、クリニック等経由しています。遊ぶことがほんとうに苦手というか、抑止されているので、プレイの経験なし。院生のころから、ずっと成人の言語面接ばかりやっています。精神病水準~神経症水準の方全般の面接経験はありますが、振り返ってみると境界例水準で機能している方が多かったように思います。

2.依って立つ学派・なぜその学派に興味を持ったか

精神分析諸派(フロイト・クライン派・独立学派・自己心理学派等)、CBTが主。
出会った順番としては、クライン派→フロイト→自己心理学派→独立学派という感じです。
CBTの勉強は、以前「自分は精神分析使いだけれど、CBTの道も知りたい」と訴えて勤めさせていただいたクリニックが、ACT含めてCBT専門外来だったので、そこから続けています。

院生のころの「受容・共感」の4文字が慣用的にはびこる、そのくせにロジャースを読むこともないつまらない講義の中、任期付き特任教授で来られていたお師匠さんの「クラインは、赤ん坊は生まれてきた絶望のために泣いていると言ったんや」という講義での発言に惹かれ(自分の世界観に近かったので)、研究室を訪れてからは沼でした。(でも「赤ん坊は~・・・」は、ランクじゃないのかな・・・今思うと)そこから、お師匠さんから紹介された松木邦裕先生の「対象関係論を学ぶ クライン派精神分析入門」で衝撃を受け、一通り松木先生の著作に触れ、わからなすぎて泣きながらクラインの著作集を読み進め、クライン派の論客をとにかく読み進め、7年くらい、精神分析に関しては、クライン、ビオン、ローゼンフェルト、タスティン等、クライン派(と、フロイト)一色でした。それから藤山直樹先生、細澤仁先生、祖父江典人先生らに開かれていった感じです。

臨床経験を重ねるうちに、クライン派の破壊性や羨望のテーマだけではやはり目が狭いと感じ(今、クライン派の論客の一人、ベティ・ジョセフの論文集を読んでいますが、やはりそう感じます)、その時に持っていたケースに応じて、自己心理学派、独立学派への関心が出、特に独立学派は、私自身がいろいろとバランスがとれていない極端なところがある人間なので、ウィニコットの「遊び」や発達論、バリントなど、自由豊饒な理論家たちに惹かれ、今クライン派と並んで、勉強量は多いです。あとは、細澤仁先生の影響を受け、時々フェレンツィを読んでます。あとはオグデンとか。

3.精神分析とりゆさんとのかかわり

精神分析自体、理論、思想、あるいは芸術と多方面な性質を有しつつ、豊饒な人間ドラマを常に内包し続けてきた稀有な事象・生き物であると感じており、フロイトはじめ先達の理論だけでなく歴史や、私生活での様子、成育歴、人生観にも興味を持って学んでいます。

もちろん学問、研究対象、治療法としての精神分析とのかかわりでもあるのですが、精神分析の理論は、私にとってはそれ自体、生きた対話の相手でもあります。
作家さんが時々仰る、「自分はストーリーを考えているのではなくて、ストーリーが自発的に生き始めて、私はそれを辿っているだけ」というのに、似ている気がします。
「生き物」というか、精神分析という生き物の息吹、動的、ダイナミズムの脈音との対話を、諸理論を通して行っているという感じです。これは、他の心理療法理論にはない魅力に思います。もちろん、私自身が長く精神疾患持ちであることもあるのでしょうが、文学と並ぶか、今ではそれ以上に自分を成すものとなっています。

4.読書という果てしない海の中の冒険
読書が海なら、常に嵐ですね。文学もその傾向はありますが、ここまで大嵐にはなりませんでした。主体として関わる質と度合いの差によるものでしょうが、精神分析理論は、多くは苦悩を抱えた理論家たち自身が、自らの血肉のかたちを変えるようにして理論を残し、発展を託したものであるからか、まるで「輸血」されたような、体験世界の変容を伴い続けます。
・・・「輸血」、見ようによってはおどろおどろしい限りなんですが、そのおどろおどろしさ、生々しさ、入魂された分析家たちの血の温もりや粘りを内外に感じ続けることが、私の血肉を腐らせずにいるように思います。

5.これからやっていきたいこと、臨床に活かす分析の知識
心理療法(あえてカウンセリングとは言いませんでしたが)、それも、臨床家たちが自分を賭して生き残った英知という意味での心理療法の普及に、尽力したいです。

「臨床に活かす分析の知識」としては、私が最も興味を持っているのは、いわゆる「死の本能(欲動)」と「反復強迫」、ここにつきます。

6.「りゆ」の由来
HNを決めるときは、音の響きと字のかたちで決めています。が、思い返せば中学生のときから一貫して、「ゾンビ屋れい子」という、古いですが一部でカルト的人気のあるスプラッタ・ホラー漫画に登場する「百合川サキ」のファンなので、「ゆり→りゆ」なのかも。
高校~大学院までつけていた文学読書ブログ「CotoAra。」では、(まだネットには残っていますが)では、たしか「ツキミ」→「小津りゆ」を名乗ってました。「小津」は、当時読んでいた漫画、「コッペリオン」から、女優であり連続殺人犯としてちらっと登場する「小津句音」から名字を拝借しました。なお、「CotoAra」は、私が一度だけ書いてUPしていたオリジナル小説、「琴と嵐と泥雪と」(データなし)の略称です。

※ りゆさんから大変貴重な知見を描いていただきまして誠にありがとうございます。対象関係論オンリーの方かと思っていたのがCBT、ACTと幅広く学びを体験されているからこそ深みがある文書なのだと感心しました。これからも体験に基づく貴重なコメントをいただければ幸いです。

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