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photo&lyric by sora (@Skylit_Blue)
掴めそうな煌めく未来。


◯ 公認心理師りゆさんの「知の輸血」

※ 序(ひなた記載)

FFの方で精神分析に詳しく、対象関係論などにいろいろとコメントをいただいている、りゆさん
りゆ (臨床心理士・公認心理師。本大好きっ!!)@iriko_riyu
にDMで寄稿をしていただきました。


※ ちなみに奥様のアーティストninaさんnina@Hoshineko_nina

りゆさんのtweetを見るとフェレット好き、とても心優しい方とお見受けしています。

フェレットのことを「本」と書いてあったので誤記ではないか、また写真にはダックスフンドもいるのでそのことについて聞いたところ

「あ、あと、ダックスフンドのこっこは、今年5月、15歳半で亡くなりました。故・こっこも加えて頂けますと幸いです。フェレットは、本当は「匹」なんですが、YouTubeの「イタチは麺類」というチャンネルのファンでして、そこのフェレット飼い主さんが、4匹いるフェレットにみんな麺類の名前を付けておられるので、パクリです。通じるひとには通じますが、「匹」のほうが無難でしょうか?^^」とのことでした。

1.自己紹介・現況

中学生からの幼馴染の妻とフェレット2本と暮らしています。学生相談や非常勤講師、行政(生活保護課心理ケア係、自殺対策係)、クリニック等経由しています。遊ぶことがほんとうに苦手というか、抑止されているので、プレイの経験なし。院生のころから、ずっと成人の言語面接ばかりやっています。精神病水準~神経症水準の方全般の面接経験はありますが、振り返ってみると境界例水準で機能している方が多かったように思います。

2.依って立つ学派・なぜその学派に興味を持ったか

精神分析諸派(フロイト・クライン派・独立学派・自己心理学派等)、CBTが主。
出会った順番としては、クライン派→フロイト→自己心理学派→独立学派という感じです。
CBTの勉強は、以前「自分は精神分析使いだけれど、CBTの道も知りたい」と訴えて勤めさせていただいたクリニックが、ACT含めてCBT専門外来だったので、そこから続けています。

院生のころの「受容・共感」の4文字が慣用的にはびこる、そのくせにロジャースを読むこともないつまらない講義の中、任期付き特任教授で来られていたお師匠さんの「クラインは、赤ん坊は生まれてきた絶望のために泣いていると言ったんや」という講義での発言に惹かれ(自分の世界観に近かったので)、研究室を訪れてからは沼でした。(でも「赤ん坊は~・・・」は、ランクじゃないのかな・・・今思うと)そこから、お師匠さんから紹介された松木邦裕先生の「対象関係論を学ぶ クライン派精神分析入門」で衝撃を受け、一通り松木先生の著作に触れ、わからなすぎて泣きながらクラインの著作集を読み進め、クライン派の論客をとにかく読み進め、7年くらい、精神分析に関しては、クライン、ビオン、ローゼンフェルト、タスティン等、クライン派(と、フロイト)一色でした。それから藤山直樹先生、細澤仁先生、祖父江典人先生らに開かれていった感じです。

臨床経験を重ねるうちに、クライン派の破壊性や羨望のテーマだけではやはり目が狭いと感じ(今、クライン派の論客の一人、ベティ・ジョセフの論文集を読んでいますが、やはりそう感じます)、その時に持っていたケースに応じて、自己心理学派、独立学派への関心が出、特に独立学派は、私自身がいろいろとバランスがとれていない極端なところがある人間なので、ウィニコットの「遊び」や発達論、バリントなど、自由豊饒な理論家たちに惹かれ、今クライン派と並んで、勉強量は多いです。あとは、細澤仁先生の影響を受け、時々フェレンツィを読んでます。あとはオグデンとか。

3.精神分析とりゆさんとのかかわり

精神分析自体、理論、思想、あるいは芸術と多方面な性質を有しつつ、豊饒な人間ドラマを常に内包し続けてきた稀有な事象・生き物であると感じており、フロイトはじめ先達の理論だけでなく歴史や、私生活での様子、成育歴、人生観にも興味を持って学んでいます。

もちろん学問、研究対象、治療法としての精神分析とのかかわりでもあるのですが、精神分析の理論は、私にとってはそれ自体、生きた対話の相手でもあります。
作家さんが時々仰る、「自分はストーリーを考えているのではなくて、ストーリーが自発的に生き始めて、私はそれを辿っているだけ」というのに、似ている気がします。
「生き物」というか、精神分析という生き物の息吹、動的、ダイナミズムの脈音との対話を、諸理論を通して行っているという感じです。これは、他の心理療法理論にはない魅力に思います。もちろん、私自身が長く精神疾患持ちであることもあるのでしょうが、文学と並ぶか、今ではそれ以上に自分を成すものとなっています。

4.読書という果てしない海の中の冒険
読書が海なら、常に嵐ですね。文学もその傾向はありますが、ここまで大嵐にはなりませんでした。主体として関わる質と度合いの差によるものでしょうが、精神分析理論は、多くは苦悩を抱えた理論家たち自身が、自らの血肉のかたちを変えるようにして理論を残し、発展を託したものであるからか、まるで「輸血」されたような、体験世界の変容を伴い続けます。
・・・「輸血」、見ようによってはおどろおどろしい限りなんですが、そのおどろおどろしさ、生々しさ、入魂された分析家たちの血の温もりや粘りを内外に感じ続けることが、私の血肉を腐らせずにいるように思います。

5.これからやっていきたいこと、臨床に活かす分析の知識
心理療法(あえてカウンセリングとは言いませんでしたが)、それも、臨床家たちが自分を賭して生き残った英知という意味での心理療法の普及に、尽力したいです。

「臨床に活かす分析の知識」としては、私が最も興味を持っているのは、いわゆる「死の本能(欲動)」と「反復強迫」、ここにつきます。

6.「りゆ」の由来
HNを決めるときは、音の響きと字のかたちで決めています。が、思い返せば中学生のときから一貫して、「ゾンビ屋れい子」という、古いですが一部でカルト的人気のあるスプラッタ・ホラー漫画に登場する「百合川サキ」のファンなので、「ゆり→りゆ」なのかも。
高校~大学院までつけていた文学読書ブログ「CotoAra。」では、(まだネットには残っていますが)では、たしか「ツキミ」→「小津りゆ」を名乗ってました。「小津」は、当時読んでいた漫画、「コッペリオン」から、女優であり連続殺人犯としてちらっと登場する「小津句音」から名字を拝借しました。なお、「CotoAra」は、私が一度だけ書いてUPしていたオリジナル小説、「琴と嵐と泥雪と」(データなし)の略称です。

※ りゆさんから大変貴重な知見を描いていただきまして誠にありがとうございます。対象関係論オンリーの方かと思っていたのがCBT、ACTと幅広く学びを体験されているからこそ深みがある文書なのだと感心しました。これからも体験に基づく貴重なコメントをいただければ幸いです。