◯ 「精神に疾患は存在しない」世界を公認心理師は作れるか?
心理職、臨床心理士、公認心理師の方々がこれから各機関で働いていく時に、統合失調症で幻覚妄想状態に陥り、緊急になんらかの医療措置を必要とする、という人と出会う場面があると思います。
そんな緊急場面に臨場したとしても果たして精神病は存在するのか?
という命題は根源的で、昔から議論の対象になっているところです。
精神疾患が存在しないとしたらなぜ医療関係者たちはこれほど目の前の患者さんの前で大騒ぎをしているのだろうか、ということにもなるわけです。
精神疾患は文化が作り出すという考え方があります。
古くは森田療法の始祖、森田正馬先生が祈禱性精神病と呼んでいたまじない、宗教に関連する精神的な錯乱状態は宗教性憑依妄想症候群とも呼ばれていました。
多分昭和も40年になる前ぐらいまではそういった現象は日本でもよく知られていた、見られていたと思いますが、いわゆる「狐憑き」はお稲荷様でおはらいをするとけろっと何事もなかったように帰っていく主にティーンエイジャーの女性が多かったようです。
なぜそんな現象が発生していたのか?
精神分析はとても性的に厳しかった19世紀ウィーンで「ヒステリー研究」を機に発祥したのですが、色街もない当時のウィーンでは父から娘、おじから姪などへの近親相姦が非常に多かったのではないかと言われています。
性被害に遭った若い女性が叫び声を上げて倒れる、ヒステリーと呼ばれる一連の伝染性の精神現象は悪しき文化に根ざしたPTSD現象だったという説は有力です。
さて、DSM-Ⅲではこういった宗教性憑依妄想、悪魔憑きやエクソシスト現象、これらはヨーロッパ、中南米や中国の民間伝承でも語られているのですが、DSMはこれらを全て統合失調症様の短期精神病として片付けていました。
ところがDSM-5になって、こういった一連の宗教性の憑依にともなうトランス状態は、解離に近いけれども解離ではないとしそもそも精神疾患ではないという位置付けになりました。
広くこの現象が文化の中で受け入れられるものならば統合失調症スペクトラム(連続体として認められる統合失調症的な世界)には入らない、解離ですらない、精神医学の関与するところではないということです。
統合失調症とは何か?
中井久夫先生は統合失調症のない文化もあるということで、統合失調症をひとつの文化依存症候群ととらえていました。
ある文化では統合失調症はシャーマンとして神聖にとらえられ、シャーマンは次世代の統合失調症好発年齢の少女を次のシャーマンとして指名します。
シャーマン文化の中では人に見えない聞こえないお告げを聞くことができる彼らは尊敬されています。
中井久夫先生がその著作「治療文化論」では天理教教祖中山みきのことについて詳しく記されていました。
みきが夫と子に命じ、全てを捨ててやり直すために自宅家屋に縄をかけて引き倒した。
お天理様は地元天理市では親しまれ地元に溶け込んでいる、中山みきのような人が現在に生まれていたらただの統合失調症患者として扱われていたかもしれない。
開祖から百数十年を経て、陽気ぐらしの教義は各地の教会に根付いています。
家にいられないくてやむなく教会に預かってもらった子がとある地域の教会長に無償で年単位で泊まり込みで面倒を見てもらっていたという話があります。
そのほかにもその教会長は人格者で同じようなことを何度も気軽に引き受けていたそうです。
中山みきの無私の精神は息づいているんだなあと思いました。
中井久夫先生は天理教本尊のごく近くで生まれ育ち、地元に根付いた信仰と精神の融合の中で育ったからこそ、文化と宗教が調和する世界に造詣が深くなったのでしょう。
何が精神疾患で何が精神疾患でないかは、その人が生きている社会、文化の中で規定されます。
精神病棟を廃止、入院をさせない国家イタリアの精神保健医療体制は有名ですが、地域の受け入れがしっかりとしていれば病気を重くしなくても済む、地域社会の体制を確立するということが大切です。
さて、公認心理師の活躍の場はまだ限られていて行政の中核では動けないと思います。
確かに精神病棟がないのがひとつの理想です。
それが不可能でも入院設備を利用する人が少なくなり、在宅医療に切り替えることができる社会、精神障害者、発達障害者と障害のスティグマ、烙印を与えなくてもいい社会になっていくことを望みます。
いまだ心理職の常勤化が進んでいない地域包括支援センター、保健所や精神保健にかかわる担当者に心理職がきちんとした形で採用され、地元に腰を据えて仕事ができる体制を整えることが医療コストを削減することにもつながると思うのです。
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